メトロ・ブーミン(Metro Boomin)の『ノット・オール・ヒーローズ・ウェア・ケイプス(Not All Heroes Wear Capes)』と、トラヴィス・スコット(Travis Scott)の『アストロ・ワールド(ASTROWORLD)』を続けて聴くと、不思議な近さを感じる。

二枚とも、特定のメロディやラップが強烈に印象に残るというより、まず音響空間そのものが身体に入ってくる。低い808、抑えたキック、マイナーなシンセ、短く差し込まれるSE、不穏な響き、残響の残った声。音数は多いのに、画面にはどこか大きな余白がある。

そこには、少しけだるい、少し不安な、少し悲しい、そしてどこか陶酔しているような感覚が漂っている。
これは、感情をメロディや言葉によって直接表現する音楽とは少し違う。
感情そのものではなく、感情が発生する空間をつくっている。
その感覚を遡ると、キッド・カディの『マン・オン・ザ・ムーン』が重要な位置に見えてくる。カディは孤独や不安を語るだけでなく、それらが生まれる夜のような音響空間をつくった。さらにその背景には、スリー6マフィアのホラー的な音響や、DJスクリューによる時間を沈めるような「チョップド& スクリュー」の感覚がある。

ホラー映画も同じだ。
暗闇、低い音、遠くの物音、間、残響。そこに「怖いもの」を直接見せなくても、観客の中に恐怖が発生する条件を組み立てる。
メトロの音響にも、この発想がある。
暗い音を鳴らして「悲しい」と言うのではない。低音と空白とSEを配置することで、聴く側が不安や孤独を感じる場所をつくる。
つまり、音楽が感情表現から感情の設計へ移っている。
『アストロ・ワールド』では、この構造がさらに巨大になる。
トラヴィスは一つの感情を歌うのではなく、遊園地というフィクションを使って、記憶、恍惚、不安、速度、群衆、孤独、幻覚のような異なる感覚を一つの世界に詰め込む。
だから『アストロ・ワールド』は、一曲ずつ聴くというより、ひとつの場所に入っていくように感じる。
そして、その世界を成立させるために、トラヴィスは自分だけの「型」に閉じない。

キッド・カディ、ザ・ウィークエンド、ジェームズ・ブレイク、テイム・インパラ、ドレイク、21サヴェージ、ファレル……。異なる声や音楽性を次々に取り込みながら、それでもアルバム全体はトラヴィスの世界として成立する。
メトロも同じだ。
フューチャー、21サヴェージ、オフセット、トラヴィス・スコットなど、それぞれ非常に強い個性を持ったラッパーと共演しながら、メトロの作品として成立させていく。
ここで興味深いのは、二人とも強烈なスタイルを持っているのに、固定された「型」を持っていないことだ。

メトロらしさは、いつも同じ音を使うことではない。
異なる音を、メトロの空間に変えてしまうことにある。
トラヴィスらしさも、いつも同じラップをすることではない。
異なる音楽家や異なるサウンドを、一つの世界の中に共存させることにある。
これは、2000年前後のコモン『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』や ディアンジェロ『ヴードゥー』にも少し似ている。


そこでも、作家性は一人のアーティストの様式だけから生まれてはいなかった。Jディラやクエストラヴ、ジェームズ・ポイザー、ピノ・パラディーノなど、異なる才能が持ち込んだものが混ざり合い、その結果として一つのアルバムが生まれていた。
ただし、そこでは人間の演奏やグルーヴの「ズレ」が共同体をつくっていた。

メトロとトラヴィスの時代になると、その共同体はデジタルな音響空間へと移っていく。
声、808、SE、シンセ、サンプル、エフェクト、編集。それぞれ異なるものが、巨大な環境の中で共存する。
だから、ここでの作家性は「自分の線を守ること」ではない。
他者を入れても、自分の世界を失わないこと。
いや、もっと進んで、
他者を入れることで、自分の世界そのものを拡張すること。
そこに現代的な作家性がある。
作品を一人の作者の内面の表現として考えるなら、コラボレーションは作者性を薄めるものになる。
しかし、作品を「異なるものが出会い、ある状態を発生させる場」と考えるなら、コラボレーションは逆に作者性を強くする。

メトロとトラヴィスの強さは、まさにそこにある。
彼らは「自分の感情」を直接見せるのではない。
感情が生まれてしまう世界をつくる。
そして、その世界には他人が入ってくる。
フューチャーの声が入り、21サヴェージの声が入り、キッド・カディが入り、ジェームズ・ブレイクが入り、さまざまなビートや音響が入り込む。
それでも世界は崩れない。
むしろ、異なるものが入ってくるほど、その世界は広くなる。
これは、これからの創造性を考えるうえでも重要な変化だと思う。

作家とは、自分だけの様式を守る人なのか。
それとも、異なるものを受け入れながら、それらが一つの状態として成立する環境をつくる人なのか。
『ノット・オール・ヒーローズ・ウェア・ケイプス』と『アストロ・ワールド』を聴いていると、後者の作家像が見えてくる。
作品とは、何かを表現するものではなく、何かが起こる場所をつくるものでもある。
メトロ・ブーミンとトラヴィス・スコットは、その場所を音でつくった。
そしてその場所には、本人たちだけではなく、無数の他者が入り込んでいる。

デイヴィッド・サーレ ─ イメージは、意味になる前に漂っている
デイヴィッド・サーレの絵を見ると、最初に奇妙な感覚に襲われる。
人物がいる。
身体がある。
写真のようなイメージがある。
装飾的な模様がある。
古典絵画を思わせる断片もある。

しかし、それらが一つの物語にまとまらない。
何かが起こっているようなのに、何が起こったのか分からない。
人物同士に関係があるようで、その関係も確定しない。
サーレは、イメージを説明するのではなく、イメージ同士が意味をつくる直前の状態を画面に残している。
1980年代のネオ・エクスプレッショニズムを語るとき、彼はしばしば「絵画の復権」という文脈に置かれる。だが、サーレの絵は、単純に絵画へ戻ったものではない。
むしろ彼は、絵画の中に流れ込んできた大量のイメージそのものを扱った。

広告、写真、ファッション、身体、古典絵画、印刷物。
現代では、イメージは一つの場所に属していない。
街にも、雑誌にも、テレビにも、広告にも、記憶にも存在する。
サーレは、それらを整理して一つの意味にまとめるのではなく、あえて同じ画面に置く。
すると、見る側はそれぞれのイメージを理解する前に、その間を移動することになる。
この「間」が重要だ。
ある人物を見たあと、別の断片を見る。
その二つの間に意味があるように感じる。
しかし、画面はその意味を保証してくれない。

だから、見る側が勝手に物語をつくり始める。
サーレの絵には、映画の一場面のようなところがある。
しかし、映画のように物語が進んでいくわけではない。
むしろ、存在しない映画の一場面だけを切り取ったような絵なのだ。
その場面の前に何があったのか。
この人物は誰なのか。
次に何が起こるのか。
それは分からない。

だから画面には、説明できない不安や、少し冷たい距離感が残る。
この暗さは、単純な悲しみではない。
イメージがあまりにも多く、しかもそれぞれが別の場所からやってきていることへの感覚だ。
広告は商品を売る。
写真は現実を記録する。
古典絵画は歴史を背負う。
身体は欲望を呼び起こす。
しかし、それらが一つの画面に並んだ瞬間、それぞれの意味は少しずつ不安定になる。

サーレは、この不安定さを消さない。
むしろ、そこから絵画をつくる。
だから彼の作家性は、「この描き方こそサーレ」という固定された様式だけにあるのではない。
異なるイメージを同じ場所に置き、それらが互いを変化させる状態をつくること。
そこにサーレの作家性がある。

これは、現代の音楽にも通じる。
メトロ・ブーミンやトラヴィス・スコットの音楽では、ラップ、808、シンセ、SE、サンプリング、声の加工など、異なる音が一つの空間に置かれる。
それぞれの音は、それ自体で完結しているわけではない。
低いビートの上に不穏なSEが浮かび、そこに加工された声が入る。
別の声が重なり、突然音響が変化する。
すると、具体的な物語を説明していないのに、夜のような、不安な、けだるい、あるいは陶酔した情景が立ち上がってくる。
音楽が感情を直接表現するのではなく、感情が生まれる環境を設計している。
サーレの絵も同じように、感情を描いているわけではない。

イメージを配置し、その関係を不安定にすることで、見る側の中に心理的な空間を発生させる。
作品とは、何かを伝えるための容器ではない。
異なるものが出会い、意味になる前の揺らぎが起こる場所でもある。
サーレの絵は、その場所をつくる。
そしてそこでは、イメージはまだ何かを説明していない。
ただ、こちらを少し不安にさせながら、次のイメージへと視線を動かしている。
意味になる前のイメージ。
物語になる前の情景。
感情になる前の空気。 サーレの絵画は、その曖昧な領域を作品にしている。


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