ウータン・クラン『Wu-Tang Forever』─ 制御しきれないまま、組み上がっていく

音楽

ウータン・クランの『ウータン・フォーエバー(Wu-Tang Forever)』を聴いていると、最初は少し不思議な感じがする。

1993年の『燃えよウータン』には、何かが始まったばかりの勢いがあった。音は埃っぽく、湿っていて、決してきれいではない。それでも、RZAのつくるビートの上で、メンバーの声が次々に入れ替わり、ひとつの方向へ突き進んでいく。

出典:Artpedia/ウータン・クラン「ウータン・フォーエバー」

ところが、1997年の『ウータン・フォーエバー』では、その勢いが少し変わっている。

曲数は増え、演奏時間も長くなった。2枚組のアルバムには、鋭く迫ってくる曲がある一方で、少し間延びしたように感じる部分や、余計なものが入り込んでいるような場面もある。

すべての曲が同じ密度でつくられているわけではない。勢いのあるラップの合間に、ふっと力が抜ける瞬間がある。アルバム全体をひとつの完成された作品として聴こうとすると、少し整理しきれていないようにも感じられる。

しかし、何度か聴いていると、その緩さも含めてウータンらしいと思えてくる。

『燃えよウータン』では、異なる声や個性が、ひとつの世界に集まってくる感じが強かった。

出典:Artpedia/ウータン・クラン

RZAのビートには、古いソウルや映画の断片を思わせる音があり、そこにメンバーの声が重なる。誰がラップしているのかが変わるたびに、曲の表情も変わる。それでも、全体には強い統一感がある。

『ウータン・フォーエバー』では、その関係が少しずつ変わっていく。

メンバーは、すでにウータンという世界を共有している。そのため、全員が同じ方向へ向かっている必要がなくなっているように聴こえる。

ODB(オール・ダーティ・バスタード)は、ラップの枠からはみ出すような声や節回しで、曲の流れを不意に変えてしまう。

出典:Artpedia/オール・ダーティ・バスタード

インスペクター・デックは、言葉の切れ味とリズムの精度で、複雑になった曲の中に軸をつくる。

出典:Artpedia/インスペクター・デック

U-ゴッドの声には、音の下のほうから全体を支えるような重みがある。

出典:Artpedia/U-ゴッド

マスタ・キラもまた、ほかのメンバーとは異なる間合いで入ってくる。

出典:Artpedia/マスタ・キラ

もちろん、こうした役割が固定されているわけではない。メンバーは曲ごとに違う顔を見せるし、ひとりの声が別の曲では違った働きをする。

大切なのは、それぞれの個性が同じ方向へ整理されているわけではないということだ。

違いを残したまま、ひとつの音楽として成立している。

『燃えよウータン』では、異なるものがひとつの方向へまとまっていく勢いが強かった。『ウータン・フォーエバー』では、その世界の中で、メンバーがそれぞれ勝手に動き始めている。

ここで、RZAというプロデューサーの存在が気になってくる。

出典:Artpedia/RZA

ウータンの音楽を考えるとき、RZAのつくるビートやサンプリングの手法は、どうしても中心に置かれる。彼がつくった音の世界があったからこそ、異なる個性を持つラッパーたちが、ひとつのグループとして認識されるようになった。

しかし、RZAの仕事は、単に全員を同じ音に合わせることだったのだろうか。

むしろ、彼がつくったのは、それぞれのメンバーが違う動きをしても、ウータンとして成立できる場所だったのではないか。

ODBの予測できない声も、インスペクター・デックの精密なラップも、U-ゴッドの重い声も、すべてが同じ方法で曲に組み込まれているわけではない。それぞれの違いが残っているからこそ、メンバーが入れ替わるたびに、曲の空気が変わる。

出典:Artpedia/ウータン・クラン

RZAがつくった構造は、個性を消すためのものではない。個性が違うまま存在するための土台でもあった。

このことを考えると、『ウータン・フォーエバー』に感じる緩さも、単純に整理が足りないという理由だけでは説明できなくなる。

すべてをきれいにまとめようとすれば、アルバムはもっと引き締まったものになったかもしれない。しかし、それではメンバーの声や癖が入り込む余地も狭くなる。

出典:Artpedia/ウータン・クラン

ウータンの面白さは、構造があることと、構造からはみ出すものがあること、その両方が同時に成り立っているところにある。

RZAの仕事を考えるうえでは、ウータンというグループが長く活動するための仕組みにも目を向けたい。

RZAは、ウータン以前にプリンス・ラキーム名義でソロ作品を発表している。1991年のEP『Ooh I Love You Rakeem』は、後に確立されるウータンのイメージとは異なる作品だった。

出典:Artpedia/プリンス・ラキーム「Ooh I Love You Rakeem」

この経験が、その後の戦略にどこまで影響したのかは、本人の考えを確認せずに断定することはできない。ただ、音楽の世界では、ひとつの作品が注目を集めることと、その成功を長く持続させることは別の問題だ。

ラン-D.M.C.やN.W.A.のように、音楽だけでなく、ファッションや態度、グループのイメージまで含めて強い存在感をつくった先行例もあった。

RZAがそうした流れをどのように意識していたかを一概には言えないが、ウータンが音楽だけでなく、メンバーそれぞれのソロ活動や衣服、ロゴなどを通じて、ひとつの文化的な存在へと広がっていったことは重要だ。

出典:Artpedia/ウータン・クラン キャップ

グループとしての活動と、個々のメンバーの活動が並行して進む。音楽のスタイルが変化しても、ウータンという名前やイメージは残り続ける。

そこでは、ひとつの音を繰り返すことだけが、グループの持続性を支えているわけではない。

むしろ、音楽の外側にも、ウータンをウータンとして認識させるものが広がっている。

出典:Artpedia/ウータン・クラン Tシャツ

もちろん、それはRZAひとりの構想だけで実現したものではない。メンバーそれぞれの活動や判断、音楽業界の仕組み、ファンの受け止め方など、さまざまな要素が関わっている。

それでも、ウータンが単なる音楽グループを超えて、ひとつの文化的な存在になっていったことは、音の新しさをどう持続させるかという問題と切り離せない。

『ウータン・フォーエバー』を聴いていると、音楽が必ずしも最短距離で進まなくてもいいのだと思えてくる。

曲の中には、もっと整理できそうな部分がある。余計に感じられる音や、少し力の抜けたラップもある。すべてを同じ密度にそろえれば、もっと引き締まったアルバムになったかもしれない。

出典:Artpedia/ウータン・クラン

しかし、そうした部分を取り除けば、ウータンの音楽にある独特の空気も変わってしまう。

『燃えよウータン』のきらめきの周囲に、『ウータン・フォーエバー』ではじめて、その埃まで見えてきた。

それは、輝きが失われたということではない。むしろ、その輝きがどのようなものに支えられていたのかが見えてきたということだ。

異なる声がぶつかり、リズムが揺れ、余計なものが入り込み、ときには少しまとまりを欠く。それでも、音楽としての輪郭は失われない。

出典:Artpedia/ウータン・クラン

『燃えよウータン』では、そうした要素がひとつの方向へ向かう勢いの中に収まっていた。『ウータン・フォーエバー』では、それらが完全には収まりきらないまま、アルバムの中に残っている。

そこに、グループが自分たちの音楽をどう持続させるかという問題も重なってくる。

ひとつの様式を完成させ、それを繰り返すことだけが、グループのアイデンティティを守る方法ではない。むしろ、個々のメンバーが変化し、音楽の方向が広がり、当初の形から少しずつ離れていっても、全体としての輪郭が残ること。そのための構造をつくることもできる。

すべてを制御する構造と、制御しきれないものが存在し続けるための構造は、同じではない。

『ウータン・フォーエバー』は、ウータンという世界が、完成された様式から、メンバーそれぞれが動き続けるための場所へと変わり始めたアルバムなのだと思う。

出典:Artpedia/ウータン・クラン

ジョージ・コンド ─ ふざけた顔の中の精密な構造

ジョージ・コンドの絵を見ると、まず顔の歪みが目に入る。

目や口の位置がおかしい。漫画のようにも見えるし、古典的な肖像画のようにも見える。

「この人、わざとふざけているのかな」と思う。

しかし、よく見ると、ただふざけているわけではないことがわかる。

出典:Artpedia/ジョージ・コンド「ピエロの肖像」

顔の配置には計算があり、色や形も細かく組み立てられている。人物の表情を少しずつずらしながら、画面全体のバランスを保つ。その技術があるからこそ、崩れた顔が単なる冗談では終わらない。

コンドの絵には、キュビスムや古典絵画、漫画、風刺画、抽象表現主義など、さまざまな表現の記憶が入り込んでいる。

出典:Artpedia/ジョージ・コンド 「ザ・クラックド・カーディナル」

彼は美術史の幅広い知識を持ち、それぞれの様式がどのように人物や世界を表現してきたのかを理解している。だからこそ、その特徴を取り出し、別の関係に置き直すことができる。

しかし、それらはきれいに融合しない。古典的な肖像画の中に漫画のような目が現れ、威厳のある人物が間の抜けた表情を見せる。異なる時代や表現がひとつの顔に同居しながら、互いに少しずつずれている。

出典:Artpedia/ジョージ・コンド「抽象的なポートレートの構成」

そこには、知識を見せるための引用とは違うものがある。美術史を知り尽くしているからこそ、正統的な表現を崩し、別の表情を引き出すことができる。しかも、崩すこと自体が目的なのではない。歪んだ顔にも、独特の存在感や心理的な奥行きが生まれている。

コンドは美術の世界だけに閉じこもってきた作家でもない。音楽家との交流があり、アルバムジャケットの制作を通じて、音楽のイメージ文化とも関わってきた。

その代表的な仕事のひとつが、カニエ・ウェストの『マイ・ビューティフル・ダーク・ツウィステッド・ファンタジー』だ。コンドはこのアルバムのために複数の絵画を制作し、カニエとアイデアをやり取りしながら、音楽に呼応するイメージをつくり上げた。

出典:Artpedia/カニエ・ウェスト「マイ・ビューティフル・ダーク・ツウィステッド・ファンタジー」

そして、このアルバムの冒頭を飾る「ダーク・ファンタジー」には、RZAがプロデューサーとして参加している。

もちろん、これだけでコンドとRZAの表現が直接結びついているとは言えない。しかし、美術史の異なる様式を自在に扱う画家と、異なる声や個性をひとつの音楽に組み上げてきたプロデューサーが、同じアルバムの中にいる。この重なりは、今回の比較を考えるうえでも興味深い。

出典:Artpedia/カニエ・ウェスト「マイ・ビューティフル・ダーク・ツウィステッド・ファンタジー」

ウータン・クランの『ウータン・フォーエバー』でも、メンバーはそれぞれ違う動きをする。ODBはラップの枠からはみ出し、インスペクタ・デックは言葉の精度で曲を支え、U-ゴッドは低いところから重みを加える。そこに、ほかのメンバーの声や癖が重なっていく。

全員が同じ方向を向いているわけではない。それでも、ひとつの音楽として成立している。

重要なのは、個々の違いが消されていないことだ。

出典:Artpedia/ジョージ・コンド「ミラノの日記」

コンドの絵も、さまざまな表現をひとつの様式にまとめ上げようとはしない。異なるものが互いにぶつかり、ずれたまま残っている。しかし、それらは無秩序に散らばっているわけでもない。画面の中には、それぞれの要素を受け止める構造がある。

自由に見えるためには、自由に動ける場所が必要になる。ふざけて見えるためには、そのふざけたものを受け止める構造が必要になる。

出典:Artpedia/ジョージ・コンド「犬の爆発」

『ウータン・フォーエバー』も、RZAがすべてを細かく制御することで成立しているわけではない。むしろ、メンバーがそれぞれの方向へ動き始めても、グループとしての輪郭が失われないところに面白さがある。

1st『燃えよウータン』では、異質な要素がひとつの方向へまとまっていく勢いが強かった。対して2nd『ウータン・フォーエバー』では、その世界の中でメンバーが自由に動き、余計なものや緩さまでが入り込んでくる。統一感を保ちながら、すべてを統一しきらない。

この違いは、コンドの絵にも通じている。

出典:Artpedia/ジョージ・コンド「無題」

彼の絵は、何でもありに見えて、実際にはそうではない。美術史の知識と確かな技術があるからこそ、異なる表現を無理に調和させず、それぞれの違和感を残すことができる。崩すことと、成立させること。その両方が同時に行われている。

すべてを制御する構造と、制御しきれないものが存在し続けるための構造は、同じではない。 コンドの絵には、その不思議なバランスがある。

出典:Artpedia/ジョージ・コンド「自己創造者」

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