アズテック・カメラ『High Land, Hard Rain』、デ・ラ・ソウル『3 Feet High and Rising』、フリッパーズ・ギター『Three Cheers for Our Side』― 三つのファースト・アルバムと摩擦のリアル

音楽

カツカレーの生成と増殖

ある時期、ポピュラー音楽において「よさ」や「リアル」の定義が静かに更新された。しかしそれは滑らかな移行ではなく、自己存在の証明を音楽に求める感覚とのあいだに、はっきりとした摩擦を伴っていた。

従来のロックやヒップホップにおいて、音楽は「自分がここにいる」という証明に近い役割を持っていた。どれだけ切実であるか、どれだけ直接的であるかが価値となる。そこでは、表現は媒介を嫌い、“そのまま”であることが求められる。

出典:Artpedia/アズテック・カメラ/ロディ・フレイム

その前提に対して、アズテック・カメラ(Aztec Camera)の『ハード・ランド、ハード・レイン』は、静かに別の答えを提示する。

出典:Artpedia/アズテック・カメラ「ハード・ランド、ハード・レイン」

60年代ポップの豊かなメロディとポストパンク以降の感性が、あまりにも自然に同居しているこの作品は、一聴して空気が澄むような清涼感と、細部まで行き届いたソングライティングの精度によって、今なお色褪せない魅力を放つ。
だがその軽やかさは、一部には「切実さの欠如」――“嘘くささ”としても受け取られた。ここで起きているのは、表現の後退ではなく、配置そのものが自己を語るという転換である。

同様の摩擦は、デ・ラ・ソウル(De La Soul)の『3 フィート・ハイ・アンド・ライジング』にも現れる。

出典:Artpedia/デ・ラ・ソウル「3 フィート・ハイ・アンド・ライジング」

ヒップホップが現実の語りとしての緊張を強く帯びていた時代に、この作品はサンプリングとユーモア、断片のコラージュによって構成された。カラフルで遊び心に満ちたサウンドと、次々に展開するアイデアの奔流は、聴くたびに新しい発見をもたらす。
しかしその軽やかさは、「現実逃避」として否定されることもあった。ここでもまた、リアルは消えていない。むしろそれは、断片を選び取り、並べ替える感覚そのものとして現れている。

出典:Artpedia/デ・ラ・ソウル

これら二つの実践は、いずれもカツカレーカルチャリズム的である。異なる文脈を溶かして均質化するのではなく、差異を保ったまま共存させる。その違和感と魅力が同時に立ち上がるところに、新しい価値が生まれている。

そしてこの構造は、日本においてさらに増幅される。フリッパーズ・ギターの『スリー・チアーズ・フォー・アワ・サイド(Three Cheers for Our Side)』は、その象徴的な展開である。

出典:Artpedia/フリッパーズ・ギター「スリー・チアーズ・フォー・アワ・サイド」

この作品では、ネオアコやソウルといった参照が軽やかに編み込まれ、ポップで親しみやすい表層の奥に、緻密な選択と配置のセンスが息づいている。その楽しさは即効性を持ちながら、同時にどこかメタ的な視線も感じさせる。

日本という環境において、これらの音楽は生活実感と直接結びつくものとしてではなく、一定の距離をもって受容された。その結果、自己存在の証明は「切実さ」ではなく、どの文脈を選び、どう配置するかという編集行為へと移行する。ここでカツカレーは多層化し、カツカレーの上にさらにカツカレーが重なるような、マトリョーシュカ的構造が生まれる。

出典:Artpedia/フリッパーズ・ギター

この三つのファースト・アルバムは、それぞれ異なる方法で、この転換を体現している。
自然な共存としての混成、編集による混成、そしてメタ的な混成。そこには常に、旧来のリアル観との摩擦が刻まれている。

そしてその摩擦こそが、これらの作品を単なる“おしゃれ”にとどめず、いまなお有効なリアルとして響かせる理由なのである。

出典:Artpedia/アズテック・カメラ

ディヴィッド・ホックニーの深刻にしないというリアル出来事を膨らませない

ポピュラー音楽において、アズテック・カメラ、デ・ラ・ソウル、フリッパーズ・ギターが示したのは、異なる文脈を並置し、編集することで自己を提示するという新しいリアルのあり方だった。そこでは、切実さを直接語るのではなく、距離や軽やかさそのものが意味を持つ。

この態度は、美術においてより明晰に可視化される。その代表が、ディヴィッド・ホックニーである。

ホックニーのプール作品、とりわけ『大きな水しぶき(A Bigger Splash)』においては、水しぶきという出来事が描かれているにもかかわらず、画面は驚くほど静かである。人物は不在で、物語は語られない。ただ、均質な色面と明快な構図の中に、出来事の痕跡だけが配置されている。

出典:Artpedia/デイヴィッド・ホックニー「大きな水しぶき」

ここで重要なのは、”ドラマはあるが、それを膨らませない” という態度である。

近代的な表現が、内面や出来事を拡張し、物語として提示してきたのに対し、ホックニーはそれをあえて行わない。出来事は感情の高まりとしてではなく、ひとつの視覚的事実として扱われる。その結果、画面はフラットでポップに見えながらも、確かな現実感を保つ。

出典:Artpedia/デイヴィッド・ホックニー「水しぶき」

この「深刻にしない」という態度は、軽薄さではない。むしろ、共同体的な物語が揺らいだ後の世界において、どのように現実と関わるかという問いへの応答である。過剰に意味づけることなく、しかし無関心にもならない。その中間に均衡が成立している。

言い換えれば、”リアルとは、強度ではなく距離によって成立する” のである。

ホックニーは、出来事を語るのではなく、それをどう配置するかによって世界との関係を示した。その方法は、音楽において現れた軽やかな混成の感覚を、視覚的な原理として明確にしたものである。

出典:Artpedia/デイヴィッド・ホックニー「芸術家の肖像」

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