コラム27:時間の不在、その強度 ~ YBA展を観て

コラム・アート概論

制作の質はどこにあるのか

先日、YBA展(テート美術館 - YBA&BEYOND 世界を変えた90s 英国アート)を観た。洗練された展示空間と印象に残る作品群によって、全体として見ごたえのある内容だった。一方で、いくつか引っかかる感覚も残った。本稿では、その違和感の所在について考えてみたい。

展覧会は、冒頭に置かれた フランシス・ベーコン によって、ひとつの基準を静かに提示するところから始まる。歪んだ身体、圧縮された空間、絵具の痕跡。そこには、イメージが成立するまでの時間が確かに沈殿しており、描くことの持続がそのまま強度となっている。

出典:Artpedia/フランシス・ベーコン 「1944年のトリプティク(三幅対)の第2ヴァージョン」

しかしその後に続く ダミアン・ハースト 以降の作品群は、まったく異なる地平に立っている。移民、人種、医学、個人的体験といった主題が前面に現れ、作品は状況やメッセージを直接的に提示する。そこでは形態の構築や試行錯誤の痕跡よりも、「何を示すか」という発想の鮮度が優先されているように見える。

出典:Artpedia/ダミアン・ハースト「後天的な回避不能」

ハーストのガラスケース内に机や煙草の吸殻を配置した作品では、本来なら制作の周縁に属していたはずの日常の痕跡が、そのまま展示空間へと移し替えられている。そこでは制作の結果というより、制作環境そのものが作品化されているようだった。時間や消耗の痕跡は存在している。しかしそれらは、長く沈殿するプロセスというよりも、瞬時に意味化されるイメージとして提示されている。

また、トレイシー・エミン の作品「モニュメント・バレー」に見られるような、私的体験の露出もYBAを特徴づける重要な要素だった。言葉、記憶、恋愛といった個人的断片は、そのまま公共空間へ持ち込まれ、観客の感情へ直接接続される。そこでは個人の内面が、奇妙なスケール感を伴って時代そのものの空気へと拡張されていく。

出典:Artpedia/トレイシー・エミン「モニュメント・バレー(壮大なスケール)」

とりわけ印象に残ったのは、ブラック・オーディオ・フィルム・コレクティヴによる映像作品 「ハンズワースの歌」 である。黒人コミュニティと暴動をめぐるこの作品は、YBAそのものというより、その前夜にある社会的・映像的感覚を示していた。ドキュメンタリーともニュースとも異なり、むしろ現在のSNSにおける個人の語りに近い距離感を持っている。内容は切実であり、感情を喚起する力も強い。しかし同時に、展示全体の流れの中では、そうした切実な主題が強いイメージとして即時的に提示され続けることで、本来そこに含まれているはずの編集や時間操作、対象との距離を測る制作上の「押し引き」が見えにくくなっているようにも感じられた。

出典:Artpedia/ブラック・オーディオ・フィルム・コレクティヴ 「ハンズワースの歌」

この違和感は、単に個々の作品の出来不出来に還元されるものではない。むしろYBA全体に通底する構造に関わっている。彼らの多くは、絵画のように時間をかけてイメージを練り上げるのではなく、コンセプトや状況を提示することで作品を成立させる。そのため作品はしばしば、思考の遊戯や発想の一撃として立ち上がる。強度はあるが、それは持続というよりも瞬間に属している。

こうした傾向は、90年代の文化状況とも無関係ではないだろう。ブリットポップが、アメリカ発のオルタナティヴ・ロックに対抗しながら、再びイギリス側へ文化の主導権を引き戻そうとしていたように、YBAもまた、アメリカ中心となっていた現代美術の覇権構造へ割って入ろうとしていた。そこでは作品そのものだけでなく、メディア露出、スキャンダル、展示空間、市場を含めた総合的なイメージ戦略が機能していた。即効性のあるイメージと社会的テーマは、そのための強力な推進力でもあった。

出典:Artpedia/ヴォルフガング・ティルマンス《座るケイト》

デュシャン以降、制作の意味が変化したことは疑いようがない。マルセル・デュシャン は、手で作ることを唯一の条件とする枠組みを解体し、選択や提示、制度への介入そのものを制作の領域へと拡張した。YBAの実践もまた、この延長線上に位置づけることはできる。

しかし同時に、両者のあいだには決定的な違いもある。デュシャンが揺さぶったのは、「何が芸術なのか」という制度そのものの基盤だった。それに対してYBAの多くの作品は、すでに拡張された芸術制度の内部に立ちながら、その中で衝撃や話題性、社会的強度を生み出していく。そこには、既存の枠組みを根底から疑うというより、むしろダダイズムやパンクにも通じる攪乱的な精神が感じられる。つまり彼らは、芸術の外部を切り開くというより、芸術内部の空間をさらに拡張し続けていたのである。

出典:Artpedia/ジェレミー・デラー「世界の歴史」

ただし、YBAのすべてが単純な即効性へ回収されるわけではない。たとえば コーネリア・パーカー の「コールド・ダーク・マター:爆発の分解イメージ」においては、爆破された小屋の破片が空間内に静止した状態で配置されている。そこでは「爆発」という瞬間的出来事が、そのまま提示されているのではない。一度分解され、距離化され、空間の中で再構成されることで、時間そのものが宙吊りにされている。強いイメージを扱いながらも、その強さを即時的に消費させないための統御が存在しているのである。

出典:Artpedia/コーネリア・パーカー「コールド・ダーク・マター:爆発の分解イメージ」

このとき重要になるのは、制作の有無ではなく、その内部でどのような統御が働いているかである。作品はどの程度の時間を引き受けているのか。どこまでを削ぎ落とし、どこであえて残すのか。どの瞬間に提示へと踏み切るのか。こうした判断の連続としての制作の統御は、しばしば不可視のまま退いているが、実のところ作品の強度を支える基盤でもある。

とりわけ社会的に切実な主題を扱う場合、この統御は単なる技術ではなく、対象との距離をどのように引き受けるかという倫理的な問題に接続する。提示の即効性を優先するのか、それとも一度引き受け、変形し、時間を通過させるのか。その選択は作品の印象を超えて、表現の態度そのものを規定する。

出典:Artpedia/モナ・ハトゥム「ホームバウンド」

ベーコンから始まり、YBAへと続くこの展示は、一見すると連続しているようでいて、実際には「時間」と「制度」という異なる軸の断層を露わにしている。前者がイメージの内部において強度を生成するのに対し、後者は社会やメディアとの接続を通じて強度を獲得する。

強い主題は、それ自体で作品を成立させてしまう力を持つ。しかし本来、制作とはその強さをいったん引き受け、それをどのような時間や距離、空間のなかで経験させるのかを組み立てる営み(フォーム)でもあるはずだ。削ること、留めること、あえて遠回りすること。その配分によって、主題は単なる情報ではなく、身体的な経験へと変換される。

もし強い内容が、そのまま強い作品として流通してしまうなら、美術における距離や編集、経験の構造はどこに残されるのだろうか。美術とは本来、世界の強度をただ提示するためではなく、それを別の感覚や時間へと翻訳するための技術だったのではないか。

出典:Artpedia/デレク・ジャーマン「運動失調―エイズは楽しい」

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