ジェイ-Z(JAY-Z)と カニエ・ウエスト(Kanye West)の『ウォッチ・ザ・スローン(Watch the Throne)』を聴いていると、ある種の異様な「気持ちよさ」に気づく。
音が大きい。ビートが強い。サンプリングが細かい。コーラスが気持ちいい。R&B的なハーモニーがある。ラップには勢いがあり、フックは何度も戻ってくる。
重低音のカタルシス、ソウルの温かさ、ゴスペルの高揚、R&Bの歌心、サンプリングの快感、巨大な音像。
ヒップホップとR&Bがそれまでに獲得してきた「気持ちよさ」が、ほとんど全部入っている。

しかも、それが最初から設計されている。
1曲目「No Church in the Wild」はフランク・オーシャンの声から始まり、そこへ重いビートが入ってくる。2曲目「Lift Off」ではビヨンセが歌い、いきなりポップ・ミュージックとしての開放感が広がる。
この並びだけでも、このアルバムが「難しい作品」になることを拒んでいるのがわかる。
親しみやすい。
大きい。
豪華である。
そして、気持ちいい。

これは単純な商業性ではない。
むしろ、ポップであることそのものを、徹底的に設計している。
その象徴が4曲目の「Otis」だ。
タイトルの通り、ここでカニエが使うのはオーティス・レディングの「Try a Little Tenderness」。
しかし、カニエはソウルの名曲をそのまま借りてくるわけではない。
オーティスの歌声、ホーン、ドラム、演奏の断片を細かく切り出し、組み替え、ループさせる。
熱唱だったものが、ビートになる。
歌だったものが、リズムになる。
過去の音楽そのものが、現在の身体を動かす素材へと変換される。

ここには、カニエのサンプリングに対する考え方がよく表れている。
サンプリングとは、昔の曲を引用することではない。
過去の音楽を、自分たちの現在の快楽へと加工することだ。
しかも「Otis」というタイトルをつけることで、その出自を隠そうともしない。
むしろ、
「この音楽の歴史も含めて、自分たちの作品だ」
と言っているように聞こえる。
『ウォッチ・ザ・スローン』全体も同じだ。

ジェイ-Zのラップ、カニエのプロダクション、ソウル、ゴスペル、R&B、ファンク、オーケストレーション、電子音、巨大な低音。
それぞれを新しいものとして発明するのではなく、すでにヒップホップが持っているものを選び、加工し、組み合わせ、極端なところまで完成させる。
だから、このアルバムを聴いていても、「新しい音楽を発明している」という感じは意外に弱い。
むしろ、
「これまでのヒップホップが気持ちよくしてきたものを、全部知っている」
という感覚がある。
ここが、2011年という時代との関係で面白い。

当時のヒップホップでは、南部の音楽が大きな勢力を持っていた。808、トラップ、オートチューン、スナップ、変則的なリズム。
新しい音楽を作ろうと思えば、そうした変化に正面から向き合う方法もあった。
しかしジェイ-Zとカニエは、そこへ真正面から飛び込んでいかない。
新しい表現を発明するより、自分たちがすでに持っている美学を、徹底的に磨く。
ここには、ある種の自信がある。
「俺たちは、新しいものを追いかけなくてもいい。」
「俺たちが持っているものだけで、ここまで巨大な作品を作れる。」
そんな態度である。

だから『ウォッチ・ザ・スローン』は、流行に乗った作品というより、自分たちの美学を時代に打ち込んだ作品に聞こえる。
タイトルの「Throne」は、その意味で象徴的だ。
王座に座るために、誰より新しいものを発明する必要はない。
すでに存在する文化を、自分たちの手で最高の形に仕上げればいい。
ここには音楽だけでなく、ファッション、アート、ラグジュアリー、映像まで含めて自分たちの世界を設計する感覚がある。
作品をブランドにするというより、創造性そのものをブランドにする。

ジェイ-Zとカニエが「何を作るか」だけではなく、「自分たちはどのような美学を持つクリエイターなのか」まで作品の一部にしているからだ。
だから、このアルバムには「工芸品」のような感触がある。
新しい素材を発明したというより、既存の素材を驚くほど精密に加工している。
音の配置。
サンプルの切り方。
声の重ね方。
コーラスの入り方。
ビートの落とし方。
そのすべてが細かく設計され、巨大な作品のなかに収まっている。
そして、ここには面白い逆説がある。
あまりにも完成させてしまうと、次の表現が難しくなる。

ジェイ-Zとカニエが、ヒップホップとR&Bの「気持ちよさ」をここまで巨大なスケールで統合してしまえば、後から同じ方法を繰り返しても、その先には行きにくい。
だから、次の世代は別の場所を探すしかなくなる。
もっと不完全な音。
もっと個人的な音。
もっと歪んだ音。
もっとミニマルな音。
あるいは、そもそも「気持ちよさ」から離れた音。
優れた作品は、後続の作家に新しい方法を教えるだけではない。
「ここまでは、もう完成している」と境界線を引いてしまうことがある。
『ウォッチ・ザ・スローン』は、まさにそういう作品に見える。
それは新しい表現の始まりというより、ひとつの美学の完成形だ。

そして、その完成度そのものが、次の創造性を要求する。
「これではないものを作らなければならない。」
そう考えさせるところまで含めて、このアルバムは強い。
美術でいえば、ポップアートが消費社会のイメージを徹底的に作品化し、その後の作家たちが「では、その先に何があるのか」と考えざるを得なくなった状況にも少し似ている。
新しさとは、いつも新しいものを発明することではない。
ときには、すでにあるものを、これ以上ないほど完成させることでもある。
そして、その完成があまりに強ければ、次の創造性はそこから逃げることによって始まる。
『ウォッチ・ザ・スローン』は、そんな意味での創造性の王座なのだと思う。

ジェフ・クーンズ(1955–、アメリカ)― 完成度を作品にする
ジェフ・クーンズの作品を見ると、最初に驚くのは、その「きれいさ」かもしれない。
鏡のように輝くステンレス・スチール。完璧に磨かれた表面。巨大なサイズ。ポップで親しみやすい形。
バルーン・ドッグ、ウサギ、花、玩具。
どれも、もともとは特別なものではない。
子どものおもちゃだったり、街で売られている商品だったり、誰もが知っているようなイメージだったりする。

それなのに、クーンズがそれらを作品にすると、突然、異様な存在感を持ちはじめる。
ここでクーンズがやっているのは、まったく新しい形を発明することではない。
すでに存在しているものを、これ以上ないほど完成させることだ。
たとえば《ラビット》は、一見すると単純なウサギ型のオブジェに見える。しかし、磨き上げられた金属の表面は周囲の光や観客を映し込み、玩具のような形が工業製品の精密さと高級品の輝きを持つ。
《バルーン・ドッグ》になると、その方法はさらに明快になる。

風船でつくられた犬という、一時的で安価なもの。
それを巨大な彫刻にし、ステンレス・スチールで制作し、鏡面のように磨き上げる。
本来なら軽く、壊れやすく、すぐに消えてしまうものが、永続的で巨大なオブジェになる。
ここでは、素材そのものよりも、完成させることの力が作品をつくっている。

クーンズは、芸術家が必ずしも「新しいものを考え出す人」でなくてもいいことを示した。
既にあるものを選ぶ。
その意味を読み替える。
サイズを変える。
素材を変える。
表面を徹底的に仕上げる。
そして、それを美術館やギャラリーという場所に置く。

すると、ありふれたものが別の価値を持ちはじめる。
このとき、クーンズの作品は「工芸品」のようにも見える。
ただし、ここでいう工芸は、手仕事の温かさという意味ではない。
むしろ逆だ。
表面に傷がないこと。
寸法が正確であること。
色が完璧であること。
光をどう反射するかまで計算されていること。
完成度そのものが、作品の内容になっている。
だからクーンズの作品には、独特のラグジュアリー感がある。
高級品とは、必ずしも新しいものではない。

既に知っているものを、素材、技術、仕上げ、希少性によって、最高の状態まで引き上げたものでもある。
クーンズは、その構造を美術作品に持ち込んだ。
そして、ここから「市場」と「芸術」の関係も変わってくる。
クーンズは、作品が高価になることを恥じない。
むしろ、巨大な作品、完璧な仕上げ、豪華な素材、展示空間、広告やファッションとの接続まで含めて、作品が社会のなかでどのように存在するかを設計していく。
作品だけをつくるのではない。
作品がどのように見られ、欲望され、所有されるのかまで含めてデザインする。
ここが、クーンズを単なる「ポップな彫刻家」と違うものにしている。

彼は、芸術作品の価値が作品の内部だけにあるとは考えていない。
それがどのようなイメージを持ち、どのような空間に置かれ、どのような人々に見られ、どのような欲望を生むのか。
そこまで含めて作品を成立させる。
その意味で、クーンズは一人の彫刻家というより、自分の美学そのものをブランドとして成立させたクリエイターに近い。
しかし、ここで面白いのは、ブランド化したから作品が空虚になるわけではないことだ。
むしろクーンズは、ポップ、消費、ラグジュアリー、子どもの記憶、広告、工業製品、芸術という、本来なら別々に存在しているものを、一つの作品のなかに同居させる。

《セレブレーション》のシリーズに現れる巨大な風船、ケーキ、花などは、子どもの誕生日のような親しみやすさを持ちながら、同時に高級品のような輝きを持つ。
安っぽいものと高価なもの。
大衆的なものと美術館的なもの。
消費と芸術。
その境界を、クーンズはあえて混ぜてしまう。

だから彼の作品は、ポップアートの後継者でありながら、ウォーホルとは少し違う。
ウォーホルが大量生産されるイメージを反復することで、消費社会そのものを画面に持ち込んだとすれば、クーンズはそこからさらに進んで、そのイメージを最高級品のように仕上げてしまう。
消費社会を批判するのではない。
消費社会が生み出した欲望を、そのまま巨大な美術作品に変換する。
ここには、現代における「創造性」の一つの変化がある。
新しいものを発明することだけが創造ではない。
すでに存在するものを見つけ、それを組み替え、異常な完成度まで引き上げることも創造になる。
そして、完成度が高ければ高いほど、それは単なる引用ではなく、自分自身のスタイルになっていく。

クーンズの作品を見れば、誰がつくったのかがすぐにわかる。
鏡面。
巨大さ。
ポップな形。
完璧な表面。
祝祭的な色彩。
既視感のあるものを、異常なほど高級にする感覚。
それらが組み合わさることで、個々の作品を超えて「クーンズ」という世界が成立している。
これは、作品をブランドにしたというより、創造性そのものをブランドにしたということなのかもしれない。
新しいものを次々に発明し続けなくてもいい。
自分が何を選び、どう仕上げ、どのレベルまで完成させるのか。
その判断そのものが、作品になる。

だからクーンズの作品は、奇妙なほど自信に満ちている。
「これが新しい」と叫んでいるわけではない。
むしろ、
「これで十分だ。いや、これ以上ない」
と言っているように見える。
新しさを競うのではなく、完成度を競う。
その完成度によって、既に存在していたものを王座に押し上げる。
クーンズがつくっているのは、単なるオブジェではない。 価値が生まれる瞬間そのものを、完成品として見せる作品なのだ。



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