ジェイ-Z (JAY-Z)の『アメリカン・ギャングスタ―(American Gangster)』を聴くと、まず感じるのは、その不思議な「古びなさ」だ。

『ブループリント(The Blueprint』や『リーズナブル・デビュー(Reasonable Doubt)』、『ブラック・アルバム(The Black Album)』ももちろん名作だが、今聴けば、それぞれが2000年代初頭という時代の空気を強くまとっている。
ところが『アメリカン・ギャングスタ―』には、その感じが薄い。2007年に作られたアルバムなのに、2007年の音楽を聴いているという感覚があまりない。



そこには、単なる映画タイアップ以上の構造がある。
ジェイ-Zは、ラップ技術の一点突破で勝負するタイプではない。声が極端に太いわけでも、リズムの跳ね方が突出しているわけでもない。リリックが文学的に凝りすぎているわけでもない。
むしろ彼の強さは、ヒップホップという文化全体の「風」を感じ取る能力にある。
マネジメントの風、オーディエンスの好みの風、時代の流行、ストリートの空気。ジェイ-Zは、それらを分析するというより、身体感覚として捉えている。
だから彼のアルバムには、つねに「現在」がある。新しいビート、新しい音色、新しいスター、新しいR&Bの感触を取り込みながら、自分自身も更新していく。
ジェイ-Zの音楽は、基本的にはそうやって時代とともに動いてきた。
ところが『アメリカン・ギャングスタ―』では、その方法を少し変えている。

2007年のヒップホップは、南部的な808、スナップ系のビート、変則的なリズム、オートチューンなど、強烈に「その時代」を感じさせる音に満ちていた。ところがこのアルバムでは、そうした現在の音楽的記号を前面に出さない。
代わりにあるのは、60〜70年代ソウルの湿度、映画のような陰影、抑えられた生音、反復するサンプル。
そして何より、曲が「聴かせよう」としすぎない。
ジェイ-Zの通常のアルバムには、強いビート、印象的な装飾音、キャッチーなフック、R&B的なメロディなど、聴き手をつかむための仕掛けがいくつもある。
しかし『アメリカン・ギャングスタ―』では、それらが意図的に後退している。
フック、フック、フックと聴き手を引っ張っていくのではなく、ひとつの空間のなかをゆっくり進んでいく。
だからこれは「曲」の集合というより、映画の「場面」に近い。

タイトルからして象徴的なのが「No Hook」だ。
ヒップホップにおいてフックは、曲を記憶させ、聴き手を引き込むための重要な装置である。その装置を外してしまうことで、ジェイ-Zはむしろ曲を「時間の中に置く」。
ここでは、最新のものを足して現在性をつくるのではない。
余計な現在性を取り除くことで、時間から距離をとっている。
そのとき、ジェイ-Zの声が不思議なほど強く残る。
彼の声は、低域の厚みで押し切るタイプではない。乾いていて、輪郭がはっきりしている。だからこそ、湿度のあるソウルのサンプルや抑制された生音の上に置かれると、声だけが時間の中をすっと通り抜ける。
カニエ・ウェストやリル・ウェインのような強い個性を持ったラッパーが参加しても、誰も作品から飛び出してこない。


全員が、この映画的な湿度のなかに収まっている。
豪華なのに派手ではない。
これは一見すると矛盾している。しかし、その矛盾こそが『アメリカン・ギャングスタ―』の強さだ。
そして、ここでジェイ-Zは「時代を読む人」から、少しだけ「時間を編集する人」へ変わっている。
映画『アメリカン・ギャングスタ―』が扱うのは、1970年代のニューヨークとフランク・ルーカスの物語だ。しかしジェイ-Zは、単純に1970年代を再現しているわけではない。
1970年代を2007年に再現するのではなく、2007年にいる自分の身体を使って、1970年代という過去をもう一度編集している。
だからレトロなのに、懐古趣味にはならない。
過去を再現しているのではなく、過去と現在の距離そのものを作品にしているからだ。
この意味では、プリンスの『バットマン』とも少し似ている。

どちらも映画という別の物語の枠組みに入ることで、アーティスト自身の通常の活動から少し離れる。そして、その制約がかえって作品を強くする。
ただし、ここで重要なのは映画的であること以上に、映画によって「時間の編集」が可能になったことだ。

ジェイ-Zは普段、時代の変化を敏感に察知し、それを自分の音楽に取り込むことで現在に立ち続けてきた。
『アメリカン・ギャングスタ―』では、その逆をやる。
新しいものを足すのではなく、あえて減らす。
強いフックを減らす。装飾を減らす。時代を象徴する音を減らす。
その結果、2007年という特定の時間から少し離れる。
だから今聴いても、「2007年っぽい」というより、
「これはいつの音なんだろう」
という感覚が残る。

『アメリカン・ギャングスタ―』は、ヒップホップにおける「時間から自由な作品」のひとつの到達点だと思う。
時代を更新することで現在に追いつくのではなく、過去を編集し、現在から距離をとる。
ジェイ-Zがここで見せているのは、流行を読む能力だけではない。
すでにあるものを選び、並べ、削り、別の時間として立ち上げる能力。
それは、ラッパーというより編集者の能力に近い。
だからこのアルバムは風化しない。
時代を超えたのではない。
むしろ、時間そのものを編集したから、特定の時代に閉じ込められなかったのである。

ゲルハルト・リヒター《October 18, 1977》― 過去を現在から見る
ゲルハルト・リヒターの《October 18, 1977》を見ると、最初に奇妙な感覚に襲われる。
何が描かれているのかは、わかる。
しかし、はっきりとは見えない。
人物がいる。死体がある。逮捕の場面がある。若い女性の肖像がある。
けれど、そのすべてが灰色の霧のなかに沈んでいる。

《October 18, 1977》は、1988年に制作された15点の連作だ。題名が示すのは、1977年10月18日。西ドイツの極左武装組織、赤軍派(RAF)の主要メンバーだったアンドレアス・バーダー、グドルン・エンスリン、ヤン=カール・ラスペが、シュトゥットガルトの刑務所で死亡しているのが発見された日である。公式には自殺とされたが、国家による殺害ではないかという疑惑も残った。リヒターは11年後、新聞や警察資料などの写真をもとに、この出来事を15枚の絵画へと変換した。

しかし、リヒターは写真をそのまま描かなかった。
写真の輪郭をぼかし、黒と白を豊かなグレーへ変え、人物や出来事を少しずつ見えなくしていく。
同じ写真をもとにした絵が複数存在する場合もある。
つまり、ここでは「何が起きたのか」を鮮明に再現することが目的ではない。
むしろ、過去のイメージが、現在の私たちのなかでどのように残っているのかが問題になっている。
写真は、本来なら過去を保存するためのメディアだ。
そこには「この瞬間に、こういうことが起きた」という証拠がある。
しかしリヒターは、その写真を絵画にすることで、逆に鮮明さを失わせる。
見えるものを、見えなくする。
記録を、記憶へ変える。

ここが、この作品の奇妙なところだ。
歴史を描くなら、普通はできるだけ明確に描こうとする。
誰が、いつ、何をしたのか。
しかしリヒターは、その明確さを拒む。
なぜなら、過去はすでに終わっているからだ。
1977年を1988年から見るとき、そこにあるのは1977年そのものではない。
11年という時間を経たあとに残った写真、記憶、報道、噂、政治的な対立、そして自分自身の記憶である。
リヒターは、それらを全部まとめて「現在から見た1977年」として描く。
だから、この作品は歴史画でありながら、歴史を確定させない。
むしろ、歴史を見る現在そのものを描いている。

リヒターはこの出来事を、長いあいだ「unfinished business」、つまり終わっていない問題として抱えていたという。大量の写真資料を集め、それを何年も経たあとに絵画へと変えていった。
ここでは、時間が単なる経過ではない。
時間そのものが、制作の材料になっている。
だから《October 18, 1977》は、1977年についての絵であると同時に、1988年についての絵でもある。

そして現在、この作品を見る私たちにとっては、さらに別の時間が加わる。
1977年。
1988年。
そして、いま。
一枚の絵のなかに、複数の時間が重なっている。
この作品が古びにくいのも、そこに理由があるのかもしれない。

もちろん、作品の背景にあるドイツの政治状況を知らなければ理解できない部分はある。しかし、リヒターはその歴史を単純な「過去の物語」にしていない。
写真をぼかすことで、出来事を現在から切り離さない。
むしろ、過去が現在のなかでどのように見えるのかを残している。
過去を保存するのではなく、過去を見るための現在を保存している。
ここに、リヒターの絵画の強さがある。

そして、この感覚は、少し意外なところでヒップホップにもつながっていく。
2007年、ジェイ-Zは映画『アメリカン・ギャングスタ―』から刺激を受け、1970年代のニューヨークとギャングスターの世界を自分の音楽へ持ち込んだ。
しかし、彼は70年代をそのまま再現したわけではない。
2007年に生きるジェイ-Zが、1970年代という過去を見直し、自分の経験やヒップホップの記憶と重ねながら、もう一度編集している。
リヒターが写真をぼかしたように、ジェイ-Zもまた、現在のヒップホップを象徴する音を少しずつ遠ざける。
フックを減らす。
装飾を減らす。
2007年らしい音を減らす。
その代わりに、過去のソウルや映画の空気を置く。
すると、過去を扱っているのに、単なるレトロにはならない。
それは「昔の音」ではなく、現在から見た昔の音になる。
リヒターにとって絵画は、過去を再現するためのものではなかった。

ジェイ-Zにとって音楽もまた、過去を再現するためのものではなかった。
二人とも、過去を素材として使いながら、その過去と現在のあいだにある距離を作品にしている。
だから作品の時間は、一方向には流れない。
過去から現在へ進むのではなく、現在から過去へ戻り、そこからもう一度現在へ帰ってくる。
時間を保存するのではなく、時間を編集する。
《October 18, 1977》のぼやけた画像は、過去が失われていく姿ではない。
それは、過去が現在のなかで別の姿に変わりながら残っていく姿なのだ。



コメント