タリブ・クエリ『Liberation 2』─ 対話が言葉を自由にする

音楽

ヒップホップには、一人で世界を切り開くラッパーがいる。

強烈な個性を前面に押し出し、どんなプロデューサーと組んでも、その作品を「自分の色」に染めてしまう。

しかし、タリブ・クエリ(Talib Kweli)は少し違う。

出典:Artpedia/タリブ・クエリ

彼は優れたソロ作品を残してきたにもかかわらず、不思議なことに、誰かと向き合ったときの方が、言葉がいっそう自由になる。

相手に合わせるのではない。

相手の世界へ入り込むことで、自分自身の表現まで広がっていくのである。

その魅力がもっともよく表れているのが、マッドリヴ(Madlib)との『リバレイション2(Liberation2) 』だ。

出典:Artpedia/タリブ・クエリ×マッドリヴ「リバレイション2」

マッドリヴのビートは、一見すると穏やかに流れている。しかし耳を澄ませると、リズムは驚くほど複雑に組み立てられ、サンプルは幾重にも重なりながら、それでも土の匂いを失わない。緻密に編集されているにもかかわらず、どこか自然に育った植物のような有機的な質感がある。

その空間の中で、タリブ・クエリはビートを支配しようとはしない。

複雑なリズムの間を歩き、呼吸し、言葉を置いていく。

だからラップはビートと競い合うのではなく、音楽そのものと対話しているように聴こえる。

出典:Artpedia/タリブ・クエリ&マッドリブ

タリブ・クエリの魅力は、その知性にあると言われることが多い。

しかし、それは難しい言葉を使うという意味ではない。

彼はストリートの暴力や成り上がりを自己神話として語るタイプではなく、本や歴史、ジャズ、コミュニティといった文化の中で思考するラッパーである。

社会への怒りや問題意識を持ちながらも、それを力や威圧ではなく、言葉と対話へ変えていく。

だから彼のラップには、どこか品格がある。

それは現実から距離を置いているということではない。

文化を通して現実を見つめる姿勢なのである。

振り返れば、タリブ・クエリの代表作には、常に優れた対話相手がいた。

ハイーテック(Hi-Tek)との『リフレクション・エターナル(Reflection Eternal)』では、ジャズやソウルを基調とした温かなサウンドが、彼の知的で誠実なリリックを支えた。

出典:Artpedia/タリブ・クエリ×ハイーテック「リフレクション・エターナル」

『ブラック・スター(Black Star)』では、ヤシイン・ベイ(Yasiin Bey)[※かつてはモス・デフ]というもう一人の優れたMCと向き合うことで、互いの言葉が反応し合い、一人では生まれないリズムや視点が生まれていく。

出典:Artpedia/ブラック・スター

そして二十年以上の時を経て制作されたブラック・スターとしてのセカンド『ノー・フィア・オヴ・タイム(No Fear of Time)』では、マッドリヴが二人のための新しい空間を用意した。

出典:Artpedia/ブラック・スター「ノー・フィア・オヴ・タイム」

『リバレイション2』と『ノー・フィア・オヴ・タイム』は、兄弟のような作品にも思える。

どちらもマッドリヴが手がけながら、その役割は少し違う。

『リベレイション2』ではタリブ・クエリという一人のMCを自由に歩かせ、『ノー・フィア・オヴ・タイム』ではタリブとヤシイン・ベイ、二人の対話そのものを成立させている。

マッドリヴはビートを作っているというより、言葉が出会う「場」を設計しているのである。

出典:Artpedia/マッドリブ&タリブ・クエリ

タリブ・クエリは、相手によって姿を変えるラッパーではない。

対話によって、自分自身の可能性を広げていくラッパーである。

だから彼のコラボレーションは、客演や話題づくりでは終わらない。

一つひとつの共作が、新しいタリブ・クエリを発見するための制作になっている。

前章で触れたLLクールJ『ザ・フォース』は、自らの歴史を未来へ編集し直すことで、新しい身体性を獲得した作品だった。

それに対してタリブ・クエリが示している成熟は、少し違う。

出典:Artpedia/タリブ・クエリ

成熟とは、自分の歴史を抱え込むことではない。

それを他者へ開き、対話のなかで更新し続けることなのである。

だから『リバレイション2』は、完成された到達点ではない。

長いキャリアを歩んできた一人のMCが、なお他者との出会いによって自由になれることを証明した、静かで豊かな成熟の記録なのである。

出典:Artpedia/タリブ・クエリ

パウル・クレー ─ 世界を取り込み、内なる宇宙へ変換する

パウル・クレーの絵画は、一見すると小さく、静かで、どこか子どもの絵のようにも見える。

単純化された線。
記号のような形。
淡い色彩。
意味を断定しない小さな世界。

しかし、その軽やかさの奥には、驚くほど広い文化的宇宙が広がっている。

出典:Artpedia/パウル・クレー「パルナッソス山」

クレーは、何か一つの様式を追求した画家ではなかった。

古代エジプトの記号、子どもの描画、音楽の構造、自然の成長、幾何学、東洋的な空間感覚、そして抽象絵画の理論。

彼はさまざまなものを吸収し、それらを自分の内部で組み替えていった。

重要なのは、クレーが引用の画家ではなかったということである。

外から得たものを、そのまま作品に持ち込むのではなく、一度自分の内側で消化し、別の秩序へ変換する。

その結果生まれるのは、世界の断片が混ざり合った画面ではなく、クレーというフィルターを通過した、独自の小宇宙である。

出典:Artpedia/パウル・クレー「城と太陽」

クレーにとって絵画とは、世界を再現することではなかった。

むしろ、見えないものがどのように形になるのかを探る行為だった。

彼は有名な言葉で、

「芸術は見えるものを再現するのではなく、見えるようにする」

と語った。

これは、単に抽象画を描くという意味ではない。

出典:Artpedia/パウル・クレー「セネシオ」

私たちが普段見過ごしている、時間の流れ、生命の成長、記憶の重なり、感情の揺れを、線や色の関係として立ち上げることである。

だからクレーの絵は、小さいながらも閉じた世界ではない。

むしろ、内部へ向かうことで無限に広がっていく宇宙なのである。

クレーの魅力は、その知性が決して冷たくならないところにもある。

彼はバウハウスで教鞭をとり、色彩や形態について理論的に研究した。

しかし、その理論は作品を縛る規則にはならなかった。

知性と遊び。
構造と偶然。
秩序と生命感。

相反するものを同時に成立させること。

そこにクレー独自の品のよさがある。

それは格式や洗練を誇示するものではない。

世界の複雑さを理解しながら、それを乱暴に単純化しない姿勢から生まれる品格である。

出典:Artpedia/パウル・クレー「トロピカル・ガーデン」

クレーの絵画は、文化との向き合い方についても示唆的である。

彼は多くのものを受け入れた。

しかし、受け入れることは模倣することではなかった。

異なる文化や時代の要素を、自分自身の内部で変換し、新しい形式として生み出した。

そこでは「混ぜること」は終着点ではない。

混ざったものが、どのような新しい秩序になるかが重要なのである。

出典:Artpedia/パウル・クレー「黄色い尖塔のある風景」

その意味で、クレーの制作は、対話によって自分自身を広げていく表現者とも重なる。

異なる音楽、歴史、文化を取り込みながら、それを自分の言葉へ変換していくラッパー。

他者との出会いによって、むしろ自分自身の輪郭を明確にしていく表現者。

クレーが外部の世界を内なる宇宙へ変換したように、優れた表現者は、取り込んだものをそのまま並べるのではなく、自分だけの形式へ変えていく。

クレーの絵画が静かに示しているのは、世界を広げる方法は、外へ向かって拡散することだけではないということである。

深く受け取り、自分の内部で変換すること。

そのとき、ひとつの小さな画面の中に、無限の宇宙が生まれる。

出典:Artpedia/パウル・クレー「マイビルド」

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