ナズは、デビューした瞬間から伝説になった。
『イルマティック』はストリートの現実を描いたアルバムだった。けれど、その現実はあまりにも美しく、言葉もあまりにも鋭かった。
ナズのラップは、路上の出来事をそのまま吐き出すというより、それを都市の風景や人生の物語へと引き上げてしまう。

ヒップホップにはもともと、もっと下世話なリアルがあった。
金が欲しい。
女が欲しい。
あいつが気に入らない。
俺のほうが上だ。
成功したい。
嫉妬する。
腹が立つ。
そうした少し格好の悪い欲望まで口にしてしまうことが、ヒップホップのリアリティでもあった。
ところがナズは、それさえ文学にしてしまった。
『イルマティック』以降、ナズには「ヒップホップの詩人」「ニューヨークの声」「生ける伝説」といった大きな物語がまとわりついていく。

本人が何をやっても、ナズという名前が先に作品を神話へ運んでしまう。
けれど、そんなナズにも、ときどき神話のすき間から、妙に俗っぽい人間が顔を出す。
それが面白いのが、『ゴッズ・サン(God’s Son)』『ヒップホップ・イズ・デッド(Hip Hop Is Dead)』『ライフ・イズ・グッド(Life Is Good)』だ。
『ゴッズ・サン(God’s Son)』─ 悲しみのなかから、昔のNasが戻ってくる
2002年の『ゴッズ・サン』は、母親を亡くした直後に作られた。
ここではナズの「人生について語る声」より先に、喪失した人間の声がある。「Dance」は母親への別れであり、「Warrior Song」や「Heaven」にも、死や信仰を前にした自分自身への問いがある。
けれど、このアルバムが面白いのは、それだけではない。

「Get Down」「Made You Look」では、むしろ急に昔のNasが戻ってくる。「Made You Look」にはクール・G ・ラップ(Kool G Rap)やEPMDのような古いハードコア・ラップへの回帰があり、ナズ自身も当時、「純粋なラップ」に戻りたいという意識を語っていた。
つまり『ゴッズ・サン』には、母親を失った息子と、まだストリートのラップをやりたい男が同時にいる。
「Last Real Nigga Alive」ではジェイ-Z (JAY-Z)との確執を振り返り、自分とJayの関係をヒップホップ史の物語として語る。その一方で、そこには競争心や傷ついたプライドもある。

神話と私情が、同じ場所にある。
『ゴッズ・サン』は、伝説になったナズが、悲しみをきっかけに一度だけ神話から降りてきたアルバムなのかもしれない。
『ヒップホップ・イズ・デッド(Hip Hop Is Dead)』─ 伝説が、とうとう文句を言い始める
2006年の『ヒップホップ・イズ・デッド』では、その「人間」がもっと面倒な形で出てくる。
タイトルからして、かなり大げさだ。
ヒップホップは死んだ。

これは歴史についての発言にも聞こえる。でも同時に、ものすごく個人的な愚痴にも聞こえる。
「Money Over Bullshit」「Where Are They Now?」「Hold Down the Block」「Hustlers」。
曲を並べると、ナズがヒップホップの歴史を批評しているだけではなく、自分が生きてきた世界の変化にいちいち反応していることが見えてくる。
「Black Republican」ではジェイ-Zと組む。
かつて激しく争った二人が同じ曲に乗る。そのこと自体が、ナズの人生がすでにヒップホップの歴史になっていることを示している。
でも「ヒップホップ・イズ・デッド」という言い方には、少しだけ「俺たちの時代はもっと良かった」という感情もある。

そこには批評家の冷静さだけではなく、年長者の苛立ちがある。
少し意地悪に言えば、おじさんのやっかみなのだ。
それがいい。
ナズほど格調高いラッパーが、ヒップホップについて「俺は納得いかない」と言っている。
初期ヒップホップのリアルとは、案外こういうものだった。
正しいかどうかではなく、腹が立ったから言う。
『ヒップホップ・イズ・デッド』には、その衝動が残っている。
『ライフ・イズ・グッド(Life Is Good)』─ 伝説ではなく、離婚した男
そして2012年の『ライフ・イズ・グッド』になると、さらに距離が近くなる。
ここではもう、ヒップホップ史だけでは作品を説明できない。

「Daughters」では父親としての自分を振り返り、「Cherry Wine」ではエイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)と男女の関係を描き、「Bye Baby」では、離婚に至るまでの結婚生活をかなり具体的に振り返る。
ここには、伝説のNasというより、離婚した一人の男がいる。
結婚、カウンセリング、離婚という私生活の出来事を、ナズはかなり具体的に語ってしまう。
これは『イルマティック』のナズとはずいぶん違う。
『イルマティック』なら、個人的な経験が都市の神話へ変換される。
『ライフ・イズ・グッド』では、逆に神話のほうへ行ききれず、「俺はこの女とのことでこんなことになった」という生活の具体性が残る。
しかも、その具体性が格好いいとは限らない。

未練もある。
プライドもある。
寂しさもある。
自分にも非があったこともわかっている。
それでも話してしまう。
そこに、ヒップホップの古いリアルが戻ってくる。
「Daughters」も同じだ。
娘を心配する父親としてのナズは、立派な人生論者ではない。むしろ、自分が若い頃にやっていたことを思い出しながら、「自分の娘が同じような男に引っかかったらどうしよう」と心配している。
これはかなり俗っぽい。
でも、だからこそリアルだ。
神話の人が、ラノベを読む
こうして三枚を並べると、ナズには少し変なところがある。
本質的には、もっとミーハーで、もっと軟派なラッパーになる可能性もあったのではないか。

実際、彼はビートに対してかなり雑食だ。
プレミア(Premier)やラージ・プロフェッサー(Large Professor)のような硬質で禁欲的なニューヨークのビートだけに閉じこもることはなかった。
サウス的な重低音、R&B、ストリングス、映画音楽的な展開、クラブ向けの音、ポップな音まで、かなり果敢に乗りにいく。
『ライフ・イズ・グッド』だけを見ても、ラージ・プロフェッサーとの「Loco-Motive」「Stay」のような古典的NYサウンドから、スウィズ・ビーツ(Swizz Beatz)とミゲル(Miguel)を迎えた「Summer On Smash」、エイミー・ワインハウスとの「Cherry Wine」まで振れ幅がある。

だからナズは、意外と「人たらし」なのだ。
新しい音を見つけると、とりあえず乗ってみる。
ところが、ラップするとどうしても格調が高くなってしまう。
本人が少し軟派に遊ぼうとしても、言葉の才能が勝手に作品を大きな物語へ引き上げてしまう。
いつも長編小説を書いている人なのに、ラノベも好き。
そんな感じなのかもしれない。
そして、トラックまで壮大になっていく。
サウスのヒップホップが、金、女、車、成功、クラブといった欲望そのものを巨大なスペクタクルにしていった時代、ナズはそれに対して、ストリングスやソウル、映画音楽的なドラマを使って、NY版のメロドラマを作っていく。

欲望は俗っぽい。
けれど、それを包む音楽は壮大だ。
だから『ゴッズ・サン』『ヒップホップ・イズ・デッド』『ライフ・イズ・グッド』では、私生活的な感情が表面化しているのに、作品そのものは神話的なスケールを保っている。
これは『イルマティック』とは逆方向のリアルなのかもしれない。
『イルマティック』では、ストリートのリアルが文学になった。
こちらでは、文学になってしまったナズの内部から、もう一度ストリート的な感情が漏れ出してくる。
嫉妬。
苛立ち。
欲望。
喪失。
プライド。
未練。
それらは、若いラッパーの「リアル」とは違う。
もうナズは伝説になっているからだ。

だから、彼が少し俗っぽいことを言うだけで、それ自体が面白くなる。
「伝説のナズも、こんなことを気にするんだ。」
その瞬間、神話の向こう側に人間が見える。
そして、その人間は案外、自由に音楽を楽しみたがっている。
『イルマティック』で神話が始まり、『ゴッズ・サン』『ヒップホップ・イズ・デッド』『ライフ・イズ・グッド』で、その神話のすき間から人間が顔を出す。
そして後年、ヒット-ボーイと組んだ6作では、さらに身軽になる。
伝説なのに、まだ遊べる。
その遊びが、次の時代のナズを作っていく。

ニキ・ド・サン・ファール ─ 派手なのに、けっこう人間くさい
ニキ・ド・サン・ファールの作品を見ていると、ときどき不思議な気持ちになる。
派手だ。
色がある。
身体がある。
欲望がある。
怒りもある。
遊びもある。
しかも、それらをあまり隠そうとしない。
芸術は、ときどき感情を高尚なものに変換する。悲しみは「喪失」に、怒りは「批評」に、欲望は「身体表現」になる。
ニキは、その変換をあまりしない。
感情があるなら、そのまま作品に入れてしまう。

1960年代の《ティール(Tirs)(射撃絵画)》では、キャンバスに仕掛けた絵具をライフルで撃った。
撃つ。
破裂する。
絵具が流れる。

感情を物理的な出来事に変えてしまうような制作だった。
この感じは、ナズの『ゴッズ・サン』に少し似ている。
母親を失ったナズは、悲しみだけをきれいな物語にせず、怒りや信仰や自己確認まで作品に持ち込んだ。
喪失しているのに、まだ自分の強さを証明したい。
その矛盾ごと作品になっている。

『ヒップホップ・イズ・デッド』になると、ナズの感情は怒りへ移る。
「ヒップホップは死んだ」という大きな言葉の裏には、文化への批評だけでなく、「俺はこんなの認めない」という個人的な苛立ちもある。
《ティール》にも似たところがある。
既存の絵画を撃ち抜く。
「こう描かなければならない」という秩序に、銃弾を撃ち込む。
もちろん批評としても読める。
でも、もっと単純に、
撃ちたかったから撃った。
というところがある。

そして『ライス・イズ・グッド』になると、ナズはさらに私生活へ近づく。
離婚、女性、娘、孤独、過去、プライド。
人生について語っているようで、実際にはかなり個人的なことを話している。


ちょっと格好悪い。
ちょっと未練がましい。
でも、その俗っぽさがいい。
ニキの《ナナ(Nanas)》もそうだ。
巨大な女性の身体。膨らんだ胸、大きなお尻、鮮やかな色、踊るようなポーズ。

美術作品として見る前に、まず「楽しそう」という感覚が来る。
身体を高尚なものに変換するのではなく、身体の楽しさそのものを巨大化する。
人間は悲しむ。怒る。嫉妬する。欲望する。見栄を張る。そして楽しむ。
そういうものを全部、作品に入れていい。
ニキの派手さは、単なるポップさではない。
感情を抑えるのではなく、感情に作品のスケールを合わせる。
それはナズにも少し似ている。
『ゴッズ・サン』では悲しみが漏れる。
『ヒップホップ・イズ・デッド』では怒りが漏れる。
『ライフ・イズ・デッド』では男女関係や生活の俗っぽさが漏れる。
それでも音楽は壮大だ。
だから俗っぽい感情が、そのまま神話の中へ入ってしまう。
ニキもまた、感情を小さくするのではなく、巨大化する。

怒りも、欲望も、身体も、楽しさも、全部大きくする。
《ティール》では破壊として現れた衝動が、《ナナ》では祝祭へ変わっていく。
そこには、美術史の文脈もある。男性中心の美術への反抗、伝統的な彫刻への距離、身体の再定義、そして作品をもっと開かれた場所へ戻そうとする意識。
けれど、作品を見て最初に感じるのは、そんな理屈ではない。
「なんか楽しそうだ」
という感覚だ。

それでいいのだと思う。
伝説になった人間ほど、感情を隠したほうが格好いい。
でも、ときどき隠さない。
怒ってしまう。
嫉妬してしまう。
未練を残してしまう。
楽しんでしまう。
ニキの作品が派手なのは、その人間を隠さないからだ。
そしてナズの三枚が面白いのも同じだ。
神話のすき間から、少し俗っぽい人間が覗いている。
芸術もヒップホップも、ときどきそのくらい人間くさいほうが面白い。


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