ジザ(GZA)の『リキッド・ソーズ(Liquid Swords)』を聴いていると、ラッパーというより、チェス盤の前に座っている人の姿を思い浮かべる。
大きく動かない。
声を張り上げることもない。言葉を次々と投げつけるわけでもない。
それなのに、一つ一つの言葉には妙な重さがある。
GZAのラップは端正だ。

韻は細かく組まれているが、それを技術として見せびらかす感じがない。言葉は多いのに、余計なものが少ない。低い声で淡々と進みながら、突然、強い言葉が置かれる。
そして、その言葉の周りに空間ができる。
ゴーストフェイスのラップを聴いていると、言葉やイメージが次々に飛んでくる。レイクウォンには、言葉を置くためのベーシックな場所がある。
GZAは少し違う。
彼は、言葉を置く。
その一語が次の一語を呼び、さらにその先の意味をつくる。まるで盤面に駒を置くように、言葉の位置そのものが重要になっている。
だから、GZAのラップには「動かない」感じがある。
もちろんラップは動いている。韻もフロウも複雑に動いている。しかし、その中心にいるGZA自身は、ほとんど動かない。
ここが『リキッド・ソーズ』の不思議なところだ。

RZAのトラックには、暗いサンプルや低く沈んだドラムがあり、映画の声や断片的な音が入ってくる。音の中にはたくさんのものがあるのに、全体には大きな空間が残っている。
その空間にGZAが入り、必要な言葉だけを置いていく。
タイトルの『リキッド・ソーズ』も面白い。
液体のように流れるものと、刀のように一点へ集中するものが一緒になっている。
GZAのラップも同じだ。
フロウは流れている。しかし、言葉は刃物のように一点へ向かう。
だから、武術を思わせるところがある。

ただし、技を次々に繰り出すというより、合気道や居合道に近い。
ずっと動き続けるのではなく、静止している時間そのものに緊張がある。
必要な瞬間だけ動く。
GZAのラップには、そんな感覚がある。
この感じをさらに面白くするのが、彼のチェス好きだ。
GZAは若い頃からチェスを好み、Wu-Tangの仲間たちとも対局していた。『リキッド・ソーズ』の制作時期にはRZAと何百局ものチェスを指していたという。

ここで思い浮かぶのが、マルセル・デュシャンだ。
デュシャンは後年、芸術家として作品を作り続けることよりも、チェス・プレイヤーとして過ごす時間を大切にした。
ただ盤面の前に座っている。
しかし、その静止した身体の内側では、何手も先のことを考えている。
GZAにも、それに似たたたずまいがある。
彼は「自分は凄いラッパーだ」と身体全体で押し出してくるタイプではない。少し離れたところから物事を見て、興味を持ったものを深く掘り下げる。
言葉について考えるときも、感覚だけでなく、その構造まで見ている。
それでいて、決して無機質ではない。

GZAは「知的で冷たい人」ではない。言葉遊びもするし、映画や武術にも惹かれる。『リキッド・ソーズ』の世界にも、ユーモアやストリートの感覚がある。
きっちりと組まれているのに、そこには楽しんでいる人間がいる。
この端正さと遊びの共存が、GZAを単なる「ウータンの知性派」と違うものにしている。
『リキッド・ソーズ』は、GZAの作家性があまりにもきれいにまとまった作品だ。
声、言葉、RZAの音、チェス、武術、暗い映画的な空気。それらが一つの場所に揃っている。
ただし、それはGZAの可能性がこのアルバムの中に閉じているということではない。
2002年の『レジェンド・オヴ・ザ・リキッド・ソード(Legend of the Liquid Sword)』を聴くと、同じGZAのラップでありながら、ずいぶん違った印象を受ける。

『リキッド・ソーズ』では、RZAの重く暗いトラックが、GZAの言葉をひとつの世界に深く沈めていた。ウータンという集団の音楽的な重力が、GZAの個性を際立たせていたともいえる。
ところが、『レジェンド・オヴ・ザ・リキッド・ソード』では、ストリングスやシンセサイザー、効果音のような音が動き回り、リズムそのものよりも、上物の音色やフレーズが曲を前に進めているように聞こえる場面がある。
GZAのラップも、その重力に縛られるというより、展開する音の中を自由に泳いでいるように感じられる。
本人がどちらの方向性を望んでいたのかは断定できない。
それでも、聴き手としては、こちらのほうがGZA自身のやりたかったことに近いのではないか、と考えたくなる。
『リキッド・ソーズ』では、ウータンの重力の中で自分のスタイルを研ぎ澄ます。
『レジェンド・オヴ・ザ・リキッド・ソード』では、そのスタイルを維持したまま、重力から少し離れてみる。
前者が盤面の中で最善の一手を探すような音楽だとすれば、後者は盤面そのものから離れ、空間の中を移動してみるような音楽だ。

重要なのは、GZAのラップそのものが大きく変わったわけではないことだ。
言葉の構成力や声の落ち着きは保たれている。変わったのは、そのラップを取り巻く環境であり、音楽の中で担う役割なのだと思う。
同じラップでも、重いビートの中に置かれれば静かな緊張を生み、動きのある音色の中に置かれれば自由な移動を生み出す。
GZAの個性は、ウータン的な音の中にいるときだけ成立するものではない。
むしろ、周囲の音楽が変わっても、その中心を保てるところに強さがある。
そう考えると、『リキッド・ソーズ』を超えたかどうかでGZAを見る必要はないのだと思う。

このアルバムには、GZAという人間の「型」がよく見えている。
言葉を削る。
間を置く。
必要なところだけ動く。
そして、盤面全体を見る。

GZAの作家性は、何かを大量に生み出すことではない。一度立ち止まり、何を残すかを決めることにある。
しかし、静止することは、動かないことだけを意味しているわけではない。
盤面を見渡すことは、盤面の外へ出る可能性を考えることでもある。
『リキッド・ソーズ』で獲得した重力を、『レジェンド・オヴ・ザ・リキッド・ソード』では飛行のために使っている。
そう考えれば、二つの作品は、動かないことと自由に動くことという、対照的な可能性を示している。
必要な瞬間まで動かないことと、動き始めたあとに自由であること。

それは、同じ作家性の異なる現れなのかもしれない。
デュシャンがチェス盤の前に座っている。
GZAもまた、暗いビートの前に座っている。
盤面は違う。
しかし、そこに一手ずつ置いていく身体には、どこか似たところがある。
大きく動かない。
だからこそ、次の一手が見える。
『リキッド・ソーズ』は、その「動かないためのラップ」が、最も鋭く形になったアルバムなのだ。

マルセル・デュシャン ─ ゲームの外から美術を見る
マルセル・デュシャンについて考えるとき、どうしても「レディメイド」という言葉が出てくる。
便器を選び、「泉」というタイトルをつける。
自転車の車輪を台座に取り付ける。
それまでの美術から考えれば、かなり奇妙なことをしている。

しかし、デュシャンがやったことを「既製品を作品にした」とだけ考えると、少し物足りない。
重要なのは、何を作ったかよりも、何を作品として選んだのかということだった。
それまでの絵画では、画家が手を動かし、色を選び、形をつくることが作品の中心にあった。
デュシャンは、そこから少し離れる。
自分で美しいものを作るのではなく、すでに存在しているものを選ぶ。
すると、「作品とは何なのか」という問題が前に出てくる。
作者が手を動かしたものだから作品なのか。
美術館に置かれたものだから作品なのか。

タイトルをつけ、見る人に「これは作品だ」と提示した時点で作品になるのか。
デュシャンは、こうした問いを一つずつ説明するのではなく、実際に作品を提示することで、美術の側へ投げ返した。
ここが面白い。
彼は新しい美術の様式を発明したというより、美術が成立する場所を少しずらした。
絵画というゲームの中で、もっと新しい絵を描こうとしたのではない。
一度そこから距離を取り、盤面そのものを見る。
チェスをしていたデュシャンの姿を思い浮かべると、この感覚が少しわかりやすい。
デュシャンは後年、チェスに多くの時間を費やした。

チェスでは、盤面そのものは決まっている。
駒の動きにもルールがある。
その限られた条件の中で、どこに駒を置くかを考える。
一手を変えれば、盤面全体の意味も変わってくる。
デュシャンの美術にも、それに似たところがある。

絵画のルールを完全に壊してしまうのではない。
むしろ、ルールがあるからこそ、そのどこを動かせば、見えているものが変わるのかを試している。
『泉』もそうだった。
便器そのものが突然、美しい物体になったわけではない。

それを「作品」として選び、美術の文脈に置いたことで、作品と日用品の境界が揺らいだ。
つまりデュシャンが動かしたのは、物体だけではない。
物体と作品のあいだにある関係だった。
その後の『大ガラス』でも、彼は普通の絵画のように画面を完成させようとはしない。
ガラス、図形、機械のような構造、偶然、時間。

絵画とは少し違うものを画面に持ち込みながら、見るという行為そのものを複雑にしていく。
さらに興味深いのは、デュシャンが「デュシャンらしい作品」を量産することに、あまり関心を持たなかったことだ。
作家になると、普通は自分のスタイルを確立し、そのスタイルを深めていく。
しかしデュシャンは、そこからも少し距離を取る。
絵を描く人から、レディメイドを選ぶ人へ。
作品を作る人から、作品が成立する条件を考える人へ。
そして、チェスをする人へ。
こうして見ると、デュシャンの作家性は「デュシャンらしい形」にあるのではない。
どこに立つかを変えることにある。

美術の内部にいる。
少し外に出る。
また別の場所から美術を見る。
そのたびに、以前とは違うものが見えてくる。
だからデュシャンは、美術を否定した人というより、美術を見る場所を何度も移動した人なのだと思う。

これは、作品をたくさん作ることとは別の意味での創造性だ。
新しい形をつくるのではなく、新しい見方が生まれる場所をつくる。
デュシャンが変えたのは、便器や自転車の車輪だけではない。
「美術を見るとき、私たちは何を見ているのか」という視線そのものだった。
そして、チェス盤の前に座るデュシャンを思い浮かべる。
そこには、何かを激しく作っている芸術家の姿はない。

ただ盤面を見て、次の一手を考えている。
しかし、その静止した姿こそ、デュシャンという作家の感覚に近いのかもしれない。
盤面の中で一番きれいな駒を作るのではない。
どの駒をどこに置くのか。
そもそも、この盤面は本当に動かせないものなのか。
デュシャンは、美術というゲームの中で勝とうとするだけではなかった。
一度そこから距離を取り、ゲームそのものを見た。
そして、ほんの少し盤面をずらした。 その小さなずれから、美術の見え方は大きく変わっていった。

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