レイクウォン『Shaolin vs. Wu-Tang』 ─ ウータンの「普通」をつくった男

音楽

レイクウォンの『シャオリンvs.ウータン(Shaolin vs. Wu-Tang)』を聴いていると、不思議な感覚になる。

RZA(レザ)がつくった初期ウータンの音とは少し違う。ビートはもう少し派手で、音の感触も現代的だ。それでも、レイクウォンがラップし始めると、ウータンの空気が戻ってくる。

出典:Artpedia/レイクウォン「シャオリンvs.ウータン」

そこで気づくのは、ウータンの色を決めているのは、必ずしもRZAのビートだけではないということだ。むしろ、レイクウォン自身がひとつの基準線になっている。

彼のラップは、GZA(ジザ)ほど冷たく一直線ではない。ゴーストフェイス・キラーほど言葉の間を複雑に揺らさない。ODB(オール・ダーティ・バスタード)のように突然どこかへ飛んでいくこともない。しかし、完全に普通でもない。

少し鼻にかかったような声。言葉を巻き込むような発音。どこかやんちゃで、少し荒れている。その声には、ギャングスタ・ラップの硬さと、少年っぽい悪戯っぽさが同居している。

この「少し壊れた普通」が、ウータンの雰囲気をつくっているのだと思う。

だから『シャオリンvs.ウータン』では、そこにGZAの真っ直ぐなラップが乗るとウータンらしさが強まり、ゴーストフェイスが入れば言葉の間に別の奥行きが生まれ、ODBのような突然の変化が入れば、一気に空気が壊れる。「普通」があるからこそ、「壊れる」ことができる。

そしてレイクウォンには、もう一つ重要な特徴がある。強い言葉をどこに置くかという、妙な勘だ。

出典:Artpedia/レイクウォン

彼は言葉をずっと詰め込むのではない。ひとつ強い言葉を置く。少し間が空く。また強い言葉が来る。車、金、銃、人の名前、街の名前、スラング。そうした短い言葉が、まるで映画のカットのように置かれていく。

これは単純なラップの技巧とは少し違う。むしろ編集に近い。何を入れるかだけでなく、どこで入れるか。そして、どこを空けておくか。

RZAが音の間をつくる。レイクウォンは、その間に言葉を置く。ただし、すべての空白を埋めるわけではない。強い言葉を置いて、残りは聴き手に想像させる。この「埋めすぎない」感覚が、レイクウォンのラップを妙に聴き続けたくさせる。

この性質が最も大きな形になったのが、1995年の『オンリー・ビルト・フォー・キューバン・リンクス…(Only Built 4 Cuban Linx…)』だった。

出典:Artpedia/レイクウォン「オンリー・ビルト・フォー・キューバン・リンクス…」

RZAのビートは低く、暗く、音数が少ない。そこに古いカンフー映画の声や効果音、ストリングス、ピアノ、断片的なサンプルが置かれる。レイクウォンは、その空間を言葉で埋め尽くすのではなく、短いフレーズを置きながら動かしていく。

RZAが舞台をつくり、レイクウォンがその上を歩く。言葉の置き方によって場面が切り替わり、人物や車、金、街、会話の断片が次々に現れる。だから『キューバン・リンクス』は、ギャングスタ・ラップのアルバムであると同時に、ひとつのB級映画を音楽の中につくったようにも聴こえる。

出典:Artpedia/レイクウォン

そこではレイクウォンの「少し壊れた普通」がちょうどいい。あまりにクールすぎれば、世界は完成された映画になってしまう。あまりに異常なら、物語そのものが崩れてしまう。レイクウォンはその中間にいる。やんちゃで、荒っぽく、少し笑えて、それでも妙にリアルだ。

そして、この世界は一度きりのものではなかった。

2009年の『オンリー・ビルト・フォー・キューバン・リンクス…パートⅡ(Only Built 4 Cuban Linx… Pt. II)』を聴くと、時間がかなり経っているにもかかわらず、あの世界の感触が戻ってくる。もちろん音は変わっている。RZAだけでなく、アルケミストやドクター・ドレー、ジェイ・ディラらの仕事を思わせる多様な音像が入り、1995年の作品とは違う時代のアルバムになっている。それでも、レイクウォンの声が入ると、あの場所が再び立ち上がる。

ここが面白い。

出典:Artpedia/レイクウォン「オンリー・ビルト・フォー・キューバン・リンクス…」Ⅱ

『キューバン・リンクスII』は、過去をそのまま再現したアルバムではない。むしろ、レイクウォン自身が時間を経たことで、かつての世界をもう一度組み直している。若い頃のギャングスタ像をそのまま演じ直すというより、その世界の言葉遣い、間、声、空気を残したまま、別の時代の音の上に置いている。

だから『キューバン・リンクス』と『キューバン・リンクスII』の間には、単なる続編以上のものがある。レイクウォンのラップが、一つの「場所」を持っていることが分かるのだ。

そう考えると、ウータン・クランは一つの音楽性というより、一つの場所に近い。

RZAは床をつくる。レイクウォンが基準線をつくる。GZAが冷静に歩く。ゴーストフェイスが歩幅を変える。ODBが突然転ぶ。メソッド・マンが前に出る。インスペクター・デックが精密な線を引く。

それぞれはかなり違う。それでも、同じ場所にいる。

出典:Artpedia/レイクウォン

『シャオリンvs.ウータン』を聴いていると、そのことがよく分かる。RZAの音が少し離れても、レイクウォンの声が入ると、その場所の空気が戻ってくる。

その声は少し鼻にかかり、少し巻き込み、少しやんちゃで、少し壊れている。そして、強い言葉を置く場所だけは妙に正確だ。

ウータンをウータンらしくしているのは、全員が異常だからではない。

「普通」に近い身体がひとつあり、その周囲で、他の身体が少しずつおかしな動きをする。

その中心にいるのが、レイクウォンなのだと思う。

出典:Artpedia/レイクウォン

ジョシュ・スミス ─ 絵画の「普通」から少しずれる

ジョシュ・スミスの絵を見ていると、最初は拍子抜けするかもしれない。

出典:Artpedia/ジョシュ・スミス「泳ぐ魚」

魚を描く。植物を描く。花を描く。キャンバスに自分の名前を書く。

やっていることだけを並べれば、とてもベーシックだ。

出典:Artpedia/ジョシュ・スミス「無題」

絵画を新しいものに見せようとするわけでもない。複雑な理論を画面に持ち込むわけでもない。むしろ、絵を描くという基本的な行為を、そのまま繰り返しているように見える。

ところが、何枚も見ていると、少しずつおかしくなってくる。

出典:Artpedia/ジョシュ・スミス「無題」

同じ魚を描いているはずなのに、形も色も違う。筆の勢いも違う。名前を書いているだけなのに、その文字が画面の中で妙に動き始める。

スミスの面白さは、この小さなズレにある。

彼は「新しい絵画」を発明するというより、基本的な行為を繰り返すことで、その反復の中から自分の絵をつくっていく。きれいに整理された画面ではなく、筆が少しはみ出し、色が重なり、形が崩れる。それでも絵は成立している。

出典:Artpedia/ジョシュ・スミス「泳ぐ魚」

この感じは、レイクウォンのラップを聴いているときの感覚と少し似ている。

レイクウォンも、ウータンの中で最も奇妙なラッパーではない。GZAほど特殊な硬さを持っているわけでもなく、ゴーストフェイスのように語りを複雑にねじるわけでもない。ODBのような突然の破裂もない。

むしろ、ラップという基本的な行為をかなり素直にやっている。

その上で、少し鼻にかかった声、言葉を巻き込むような発音、やんちゃな感じがあり、さらに強い言葉をどこに置くかという勘がある。

普通に近いからこそ、小さなズレがよく見える。

出典:Artpedia/ジョシュ・スミス「泳ぐ魚」

スミスも同じなのだと思う。

絵画の基本的な場所に立っているからこそ、筆の癖や色のずれ、文字の置き方が、そのまま作品の個性になる。これは技巧を否定することではない。技巧を前面に出さないことで、身体の癖そのものが見えてくる。

同じ魚を何度も描く。同じ名前を何度も書く。同じようなキャンバスに、また絵具を置く。

出典:Artpedia/ジョシュ・スミス「泳ぐ魚」

その繰り返しの中で、少しずつ違うものが生まれる。

そこには、作品を一枚の完成されたものとして閉じるより、制作を続けることそのものを作品にしていく感覚がある。

一枚ごとに完成させるというより、何枚も描くことで少しずつ絵画の場所を変えていく。だからスミスの絵は、「更新」より「継続」に近い。

何か新しいものを発明して前のものを乗り越えるのではない。基本的なことを繰り返す。その中で少しずつズレる。そのズレが積み重なって、いつの間にかその人の絵になっている。

出典:Artpedia/ジョシュ・スミス「コバルト・フィッシュ」

レイクウォンのラップも、ウータンの中でそんな位置にあるのかもしれない。

RZAが大きな音の場所をつくり、その上でレイクウォンが基本的なラップをする。そこにGZAの冷静さが入り、ゴーストフェイスが間をずらし、ODBが突然壊す。

レイクウォン自身は、極端な変化を担当しているわけではない。だからこそ、彼が基準線になる。

出典:Artpedia/ジョシュ・スミス「レッド・ドーン」

スミスの絵も同じだ。

絵画の基本的な場所に立ち続ける。そこから大きく離れない。けれど、描くたびに少しずつ違ってしまう。

「普通」であることは、個性がないことではない。

むしろ、ベーシックな場所に長く留まることで、ほんの小さなズレまで自分のものになっていく。

ジョシュ・スミスの絵は、そのことを静かに見せている。

出典:Artpedia/ジョシュ・スミス「レッド・ドーン」

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