ヤン・ファーブル(1958–、ベルギー)
昆虫の鎧をまとった身体
ヤン・ファーブルの作品を見ると、まず美しいと思う。
青や緑に光る甲虫の翅。
金属のような光沢。
細かく並べられた昆虫の身体。

しかし、しばらく見ていると、その美しさの奥から別のものが出てくる。
死。
骸骨。血。傷ついた身体。鎧を着た人間。昆虫のような身体。
きれいなのに、少し気持ちが悪い。
その感じは、ベルギーの先輩画家ジェームズ・アンソールを思い出させる。

アンソールが仮面や骸骨、祝祭の群衆を一つの画面に押し込み、華やかさの中に死や腐敗の気配をつくったように、ファーブルもまた、美しいもののすぐ隣に死を置く。
ファーブルには、もう一つ奇妙な出発点がある。
彼はフランスの博物学者ジャン=アンリ・ファーブルの曾孫として知られている。ジャン=アンリ・ファーブルは『昆虫記』で知られ、昆虫を徹底的に観察し、その行動を記録した人物だ。ヤン・ファーブル自身も、幼い頃から昆虫に興味を持ち、1978年には両親の土地にテントを張って「鼻の研究所(Nose Laboratory)」と名づけた小さな研究室をつくっている。そこには昆虫、薬品、顕微鏡などが置かれていた。

ここには、科学者の曾祖父から芸術家の曾孫へと続く、少し奇妙な時間の流れがある。
しかしファーブルは、曾祖父のように昆虫を科学的に分類するわけではない。
昆虫を、人間の身体へ持ってくる。
甲虫の翅は彫刻の表面になる。
昆虫はドレスになる。

そして鎧になる。
ここで「外骨格」という昆虫の身体構造が重要になる。
人間は身体の外側に服や鎧をつける。
昆虫は、最初から身体そのものが鎧のようになっている。

ファーブルは、この違いをひっくり返してしまう。
人間の身体に昆虫の外骨格をかぶせる。
すると、鎧は単なる防具ではなくなる。
人間の皮膚なのか。
昆虫の殻なのか。
装飾なのか。
死んだ身体を覆うものなのか。
その境界がわからなくなる。
2001年の《サングイス / マンティス(Sanguis / Mantis)》では、ファーブルはカマキリを思わせる重い金属製の鎧を身につけ、自分の血で紙に文字や図像を描いた。作品のタイトルにある Sanguis は血、Mantis はカマキリを意味する。ここでは昆虫の外骨格と、人間の傷つきやすい身体が一つのパフォーマンスに重なっている。

さらに遡れば、1978年の《私の体、私の血、私の風景(My Body, My Blood, My Landscape)》では、自分の身体を傷つけ、血を使ってドローイングを制作している。

血は赤い絵具ではない。
自分の身体から出てくるものだ。
だから、ここでは「描く」という行為そのものが身体になる。
紙の上に線を引くことと、身体から血が流れることが同じ場所に置かれる。
ファーブルにとって、生命と死は反対側にあるものではない。
生命があるから傷つく。
傷つくから血が出る。
血が出る身体は、やがて死ぬ。
そして死んだ身体は、骨や殻や標本になる。

昆虫もまた、生命の動きが止まれば標本になる。
つまりファーブルの昆虫は、生命の象徴であると同時に、死のイメージでもある。
この二重性が、彼の作品を不気味にしている。
甲虫の翅を大量に使った作品も同じだ。

ブリュッセル王宮の《喜びの天国(Heaven of Delight)》では、天井一面を大量の甲虫の翅鞘で覆い、光を反射する巨大な装飾空間をつくった。2002年のこの作品には150万枚以上の翅鞘が使われたとされる。
一枚一枚を見ると美しい。

しかし、それが何十万、何百万と集まると、別の感覚が生まれる。
美しいものが大量に集まることで、生命の痕跡そのものが巨大な物質になる。

ここには、ベルギーの美術史を思わせるものもある。
アンソールの仮面や骸骨。
ボスやブリューゲルの怪物。
ファン・エイク以来の細密な表現。
宗教的な身体。
そして中世の騎士や甲冑。

ファーブルはこうした過去をそのまま再現しているわけではない。
昆虫を通して、現在の身体にもう一度呼び戻している。
そのため、彼の作品には奇妙な時間の重なりがある。
中世の騎士がいる。
昆虫がいる。
現代のパフォーマーがいる。
科学者のような観察がある。
そして、その身体から血が流れている。

過去と現在、自然と人工、科学と神話、生と死が、完全には混ざらないまま一つの身体に重なっている。
だからファーブルの作品は、未来的というより、むしろ古い。
ただし、それは懐古ではない。
昆虫という極端に古い生命の形を使いながら、現代の身体や芸術そのものを問い直している。
しかも、その古さは美しいだけではない。
甲虫の翅は宝石のように輝く。

鎧は英雄のように見える。
天使や聖人が現れる。
しかし、そのすぐ後ろには骸骨がいる。
美しい身体の中には、死んでいく身体がある。
この「美しいものの裏側に、血と死がある」という感覚は、アンソールを思わせると同時に、ファーブル自身の強い身体性へつながっている。
昆虫は、単なるモチーフではない。

それは皮膚であり、鎧であり、標本であり、死体であり、同時に生き物でもある。
ファーブルはそこから、人間というものをもう一度つくり直していく。

科学者だった曾祖父が昆虫を観察したように、ファーブルも昆虫を見る。
しかし彼は、昆虫を観察するだけでは終わらない。
昆虫を人間の身体に着せる。
身体を鎧にする。
鎧を彫刻にする。
血を絵にする。
そして、そこに中世の宗教やベルギーの美術史まで重ねていく。 彼は皿に、昆虫の外骨格と人間の血、ベルギーの歴史と中世の身体を、死と変態というルーで煮込んだのだ。

カツカレーカルチャリズム画家列伝81 ~ヤン・ファーブル 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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