混ぜすぎた美術史 131 ~幻想絵画とヨーロッパの美術観Ⅱ ― 形式とイメージのあいだ

アート

5. 「確からしさ」の揺らぎ

では、イメージが思考を生み出すのだとすれば、私たちが現実を理解するということは、どういうことなのか。

ここで、もう一つ考えておきたいことがある。

それは、私たちが何を現実らしいと感じ、何を確かなものとして受け取るのか、という問題だ。

出典:Artpedia/ルネ・マグリット「イメージの裏切り」

精密に描かれた幻想的なイメージは、実際には存在しないものであっても、強い実在感を持つことがある。逆に、日常的に見慣れたものでも、見方が変われば、急に不確かなものに感じられることがある。

もちろん、強い実在感があることと、実際に存在することは同じではない。イメージが感情を動かすからといって、そこに描かれたものが事実であるとは限らない。

しかし、私たちが世界を理解するとき、客観的な事実だけを手がかりにしているわけでもない。記憶や身体感覚、文化的な背景、過去に見たものとの連想などが重なり合い、目の前のものが何であるかを感じ取っている。

出典:Artpedia/ゲルハルト・リヒター「ベティ」

何を現実らしいと感じるかは、目の前にある形だけで決まるわけではない。その形をどのようなものとして見るのか、どんな意味を結びつけるのかという、私たち自身の側の働きも関わっている。

たとえば、同じ季節を表す場合でも、女神の姿を描くことと、柔らかい日差しの差し込む縁側を描くこととでは、鑑賞者がイメージに接近する道筋が異なる。

女神の姿は、神話や寓意といった文化的な体系を通して、季節の意味を伝えることができる。一方、縁側の日差しは、光や温度、記憶の中の風景などを通して、季節の感覚を呼び起こす。

出典:Artpedia/ウイリアム・ブーグロー「春の夢」

前者では、イメージが文化的な意味へと接続される。後者では、具体的な感覚や記憶から、季節の気配が立ち上がる。

もちろん、女神の姿が感覚的な美しさを持つこともあれば、縁側の日差しが日本的な情緒を表す記号として機能することもある。象徴と感覚は、明確に分けられるものではない。

それでも、イメージと意味のあいだには、さまざまな距離がある。

私たちは、イメージを見てすぐに意味を理解することもあれば、記憶や連想をたどりながら理解することもある。また、何かを感じ取っていても、それを明確な意味に置き換えられないこともある。

出典:Artpedia/日本の春の情景(イメージ)

こうした違いを考えると、私たちが現実をどのように経験しているのかという問題も、単に事実を知っているかどうかだけでは捉えられない。

つまり、私たちの経験における「確からしさ」には、事実を確かめることとは別に、何かを現実として感じ取る働きも含まれている。

現代では、スマートフォンやコンピューターをはじめ、さまざまな技術や制度が生活を支えている。しかし、その仕組みのすべてを理解しながら使っている人は少ない。私たちは、内部の仕組みが見えないものを、結果や経験を通して信頼している。

出典:Artpedia/ヒルマ・アフ・クリント「10の最大作ー幼年期」

科学や技術の進歩によって世界が明らかになっていく一方で、私たちが直接理解できない仕組みも増えている。見える結果と、見えない原因の距離は、必ずしも縮まってはいない。

こうした状況のなかで、絵画は何が事実かを判定するためのものではないにしても、私たちが何を現実らしいと感じ、どのように意味をつくっているのかを考える手がかりになり得る。

出典:Artpedia/セシリー・ブラウン「顔立ちは美しくも悲しみに満ちて」

6. 形式を問うこと、イメージを生み出すこと

戦後のアメリカ美術が、絵画の条件や美術の制度を問い直してきたことには、大きな意味がある。

作品を成立させる仕組みを明らかにすることは、これまで当然とされてきた価値観を問い直すことにもつながる。ミニマリズムやコンセプチュアル・アートは、作品の形や物質、空間、言葉、制度などに目を向けることで、美術の可能性を広げてきた。

ただし、作品の仕組みを理解することと、作品を経験することは、必ずしも同じではない。構造についての説明がどれほど正確でも、それだけでは作品に触れたときの感情や違和感を十分に説明できない場合がある。

一方、イメージを中心に考える絵画も、単に感情に訴えればよいわけではない。形や色、構図、細部の関係がなければ、イメージは十分な力を持たない。

両者は、単純に対立するものではない。

出典:Artpedia/リタ・アッカーマン「ママ」

ロバート・ラウシェンバーグの作品を考えてみてもよい。絵画の中に写真や印刷物、日常のイメージが入り込み、異なる情報が一つの画面に共存する。そこでは、絵画の構造が問われると同時に、イメージ同士の衝突や連想が、見る人の思考を動かしている。

出典:Artpedia/ロバート・ラウシェンバーグ「リバス」

ここで重要なのは、形式がイメージを制限するだけのものではないということだ。形式は、イメージ同士の関係をつくり、鑑賞者がそれらをどのように経験するかを左右する。

ひとつのイメージが何を意味するのかは、それ自体の形だけで決まるわけではない。何と並べられ、どのような空間に置かれ、どのようなイメージと関係するかによっても変わってくる。

形式を問うことと、イメージを生み出すこと。その二つを切り離さずに考えることで、絵画をより広く捉えることができる。

7. 世界を説明するのではなく、世界との関係をつくる

社会の仕組みが複雑になり、目に見える現象の背後にある原因をつかみにくくなるほど、私たちは世界をどのように理解すればよいのか、迷うことになる。

そのとき、絵画は、見えない仕組みをすべて説明する必要はない。

出典:Artpedia/ジョージ・コンド「メンタル・ステーツ」

色や形、人物や動物、奇妙な空間、意味のわからない記号。そうしたものを画面に置くことで、見る人の記憶や感情を呼び起こし、いつもの世界を少し違ったものとして経験させることができる。

そこでは、作品が一つの明確な答えを提示する必要もない。見る人によって意味が変わり、何を見たのかが最後まで定まらないこともある。その曖昧さは、必ずしも作品の不足ではない。イメージが見る人の中で働き続けるための余地にもなる。

出典:Artpedia/アルバート・オーレン「コンピューター・ペインティング」

イメージと意味の距離は、必ずしも近ければよいわけでも、遠ければよいわけでもない。

意味がすぐにわかるイメージには、伝達の強さがある。一方、意味が簡単には確定しないイメージには、見る人の記憶や感情、連想が入り込む余地がある。

重要なのは、何を描いたのかを理解することだけではなく、そのイメージが自分の中で何を引き起こすのかということだ。

私自身の制作でも、動物の顔や色面、文字のようで文字とは言い切れない形を、一つの意味に収束させずに画面に置いている。それらは、あらかじめ決められた意味を伝えるためだけにあるのではない。記憶の中で出会ったものが、描くという行為を通して再び現れ、別のイメージと重なり合う。その過程で、最初にはなかった意味や感情が生まれることもある。

あーとむーす「びょうびょう – 染色的 浸透的 幸 沈殿性」

動物の顔は、ただ動物を表しているだけなのかもしれない。あるいは、何かの象徴やキャラクターのようにも見えるかもしれない。文字のような形も、意味を読み取ろうとすれば何かを連想させるが、明確な意味を確定することはできない。

それらのイメージは、何かを示しながら、何かひとつだけを示すことから逃れている。

ここでは、イメージが文化的な意味を持つことと、個人的な感覚や記憶を呼び起こすことが、同時に起こり得る。見る人は、既存の象徴や見慣れた形を手がかりにしながら、自分自身の経験を通して作品と関わることになる。

絵画は、世界を説明するためだけのものではない。

あーとむーす「けん - 浸透圧 層 幸 八百万的 相転移」

世界がどのように感じられ、どのような意味を持ち始めるのか。その過程を、目に見えるかたちで生み出すこともできる。

イメージを見ることは、すでにある意味を受け取ることだけではない。まだ言葉になっていない感情や思考が、自分の中に生まれてくるのを経験することでもある。

絵画の奥行きは、描かれた空間の中だけにあるのではない。イメージと意味のあいだ、作品と鑑賞者のあいだにも生まれる。

その距離が残されているからこそ、作品は説明を終えたものにならず、見るたびに異なる経験を生み出すことができる。

あーとむーす「エル-全肯定成」

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