ヴォルフガング・フッター(1928–2014、オーストリア)
明るい色の中の終末
ヴォルフガング・フッターの絵を見ると、まず目に入ってくるのは色と形だ。
鮮やかな色面、滑らかなグラデーション、浮遊する球体や植物。そして、ときには画面の中に現れる目。
どれも輪郭がはっきりしていて、どこかイラストレーションやポスターのように整理されている。
しかし、その明るさの奥には、奇妙な不安がある。

フッターの画面では、物体が本来あるべき場所から離れている。
身体の一部のようなものが空間に浮かび、目だけが身体から切り離される。
とくに「目」を主題にした作品では、目はもはや顔の一部ではない。ひとつの形、ひとつのイメージとして画面の中に置かれている。

見るための器官だったものが、見られる対象であり、同時に装飾にもなっている。
ルネ・マグリットが帽子や石、リンゴなどを本来の文脈から切り離し、ありえない場所に置いたように、フッターもまた、物体を身体や重力から解放していく。
ただし、フッターの世界はマグリットよりもずっとカラフルで、装飾的だ。

物体は写真のような質感を持つというより、最初から「イメージ」として整理されている。
グラデーションによって立体感をつくりながら、その立体はどこか人工的で、画面の中を漂っている。
ここで重要なのは、フッターの絵が「分かりやすい」ことではない。
むしろ、複雑な幻想を、あえて分かりやすい形へ変えていることだ。
植物、目、身体、球体、鳥、花。

それぞれは細かく描かれているのに、画面の中では一種の記号のように働いている。
これは、絵画が絵具によって現実を再現するだけではなく、印刷物や広告、映画、雑誌などを通して、大量に複製される「画像」として見られるようになった時代とも重なっている。
フッターは、その新しい視覚環境を拒むのではなく、幻想の内部へ取り込んでいった。
だから彼の絵は、古い幻想絵画のようでありながら、どこか現代的に見える。
そして、そこで「目」が重要になる。

一つの身体に二つの目があるという当たり前の構造から離れ、目そのものが独立した形になる。
すると、見る人と見られるものの境界が曖昧になる。
こちらを見ているような目があり、その目自体もまた、画面のどこかから見られているように感じられる。
「見る」という行為が、身体から切り離されてしまうのだ。

この感覚は、フッターの幻想世界全体にも通じている。
身体は身体のままではなく、目や植物や装飾的な形へと分解される。
空間もまた、現実の場所ではなく、それらの形が浮かぶための舞台へ変わっていく。
ここには、戦後ヨーロッパの幻想絵画に特有の、現実から少し離れた世界をつくろうとする感覚がある。
しかし、その世界は決して暗くない。
むしろ明るい。

鮮やかな色彩と滑らかなグラデーションによって、画面は夢のように美しく整えられている。
だからこそ、そこに浮かぶ身体の断片や独立した目が、かえって不気味に見える。
それは未来の楽園というより、何かが終わった後にも続いている美しい世界のようだ。

ヨーロッパの幻想には、しばしば終末の記憶がある。
フッターは暗い色で破滅を描くわけではない。
明るい色の中に、身体の分解、孤立、そして「見る」という行為の不安を忍ばせている。
この点でフッターは、フックスともハウズナーとも違う。
フックスが神話や宗教、身体のイメージを濃密な細密描写の中へ押し込んでいったとすれば、ハウズナーは精密な描写を使いながら、遠近法や測定の仕組みそのものを揺さぶった。
それに対してフッターでは、描かれたものが次第に「物」から「画像」へ変わっていく。

目も、身体も、植物も、現実の物体であると同時に、画面の中で独立した記号になっていく。
だからフッターの幻想は、別世界を描くことだけではない。
世界が次々と「画像」になっていく時代に、その画像そのものを幻想へ変えていくことでもある。
明るい色、滑らかなグラデーション、浮遊する目や植物。
そこには、未来的な軽さがある。
しかし、その軽さの下には、身体から離れていくもの、居場所を失っていくものの気配がある。
彼は皿に、マグリット的な浮遊とイラストレーションの明るさを、明るい色の中の終末というルーで盛ったのだ。

カツカレーカルチャリズム画家列伝35 ~ウィーン幻想派:ルドルフ・ハウズナー、エルンスト・フックス 他 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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