ルドルフ・ハウズナー(1914–1995、オーストリア)
絵画の空間からはみ出す幻想
ルドルフ・ハウズナーの初期の絵には、どこか神秘的で暗い空気がある。
夢や無意識、身体の内部を覗き込むような感覚だ。
ウィーン幻想派の一員として知られるハウズナーは、精密な描写を使いながら、現実そのものではなく、現実の奥にある心理や幻想を描こうとした。
ただ、ハウズナーの面白さは、そこにとどまらない。
彼は「現実ではない世界」を描くだけでなく、現実を描くための絵画そのものを少しずつ変えていった。
1948年の《私だよ!(Ich bin Es(It’s me!))》を見ると、そのことがよく分かる。

一見すると、細密に描かれた風景の中に人物がいる。
しかし、その人物は風景の中に静かに収まっているわけではない。
身体は細長く引き伸ばされ、背景の風景を突き破るように、こちら側へ入り込んでくる。
風景は単なる背景ではなく、一枚の幕のように裂け、その向こうから人物が現れる。
ここでは、絵画は現実を覗き込むための窓ではなくなっている。
絵の中に描かれたものが、絵画そのものの空間を揺さぶり始めるのだ。

その後の作品を見ていくと、この「空間のずれ」はさらに複雑になっていく。
人物や物体は相変わらず非常に細かく描かれている。
その一方で、画面には線や矢印、目盛り、円、図形のような記号が入り込んでくる。
それらは物体の輪郭でも、遠近法を示す線でもない。
絵の中の空間に属しているようでありながら、同時に絵の表面からこちら側へ飛び出してくる。
「アダム」シリーズでは、身体とともに定規やメジャー、標的のような「測るための道具」が登場する。


人間の身体を測り、世界を数値や尺度によって位置づけようとする近代的な感覚が、そのまま自己像の中に入り込んでいる。
しかし、測ることによって世界が完全に理解できるわけではない。
むしろ、測れば測るほど、その背後にまだ測れないものが残っている。
ハウズナーの絵には、そんな感覚がある。
これは、彼が生きた時代とも重なって見える。

科学や技術が世界を細かく測り、写真やテレビによって遠くの出来事まで見えるようになった。
さらに宇宙開発によって、人間の視線は地球の外へまで伸びていった。
ところが、見えるものが増えるほど、世界には自分の目では直接見ることのできない仕組みや領域も増えていった。

ハウズナーは、こうした時代に古典的な描写力を捨てなかった。
むしろ、その描写力を使い続けたまま、線や記号、強い色彩、グラデーションを画面に加えていった。
とくに後の作品では、人物や物体が暗い幻想世界というより、惑星や宇宙空間を思わせる場所に浮かんでいるようにも見える。

そこでは、遠近法によって奥へ続いていくはずだった空間が、途中でほころびる。
線は奥行きを説明することをやめ、矢印はどこかを指し示しながら、同時に何を指しているのか分からない。
色面やグラデーションも、単なる背景であることをやめ、一つの空間として立ち上がってくる。
つまりハウズナーは、古い絵画技法に戻ったのではない。

古い技法を使ったまま、その内部から新しい空間をつくり出している。
幻想は過去へ戻るためのものではない。
むしろ、見える世界が急速に増えていった時代に、まだ見えていないものを想像するための方法にもなっていた。
ハウズナーの絵では、古典的な描写と近代的な記号が、互いを打ち消すことなく同じ画面に置かれている。

精密に描けば描くほど、世界は分からなくなる。
測れば測るほど、測れないものが残る。
そのほころびから、幻想が入り込んでくる。
彼は皿に、古典的な遠近法と近代的な記号を、幻想というルーで盛ったのだ。

カツカレーカルチャリズム画家列伝35 ~ウィーン幻想派:ルドルフ・ハウズナー、エルンスト・フックス 他 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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