混ぜすぎた美術史 57 ~アルシール・ゴーキー

アート

アルシール・ゴーキー(1904–1948、アルメニア/アメリカ)

失われた故郷、残された形 ― 記憶の抽象化

20世紀前半、多くの芸術家が移動を経験した。しかし アルシール・ゴーキー の場合、その移動は単なる旅や留学ではなかった。

故郷そのものの喪失である。

オスマン帝国末期に生まれた彼は、アルメニア人虐殺によって家族や土地を失い、やがてアメリカへ移住する。失われた故郷はもはや帰る場所ではなく、記憶のなかにしか存在しないものとなった。

出典:Artpedia/アルシール・ゴーキー「マスター・ビルの肖像画」

その感覚は、彼の絵画全体に静かに浸透している。

たとえば《芸術家とその母》では、幼少期の写真をもとに母と自分が描かれている。しかしその姿は写実的な肖像でありながら、どこか時間から切り離されている。母はすでに亡くなり、故郷も失われている。画面に残されているのは、実在の人物というより、記憶そのものの輪郭である。

出典:Artpedia/アルシール・ゴーキー 「芸術家とその母」

後期作品になると、その傾向はさらに強まる。

《肝臓は鶏のとさか》や《滝》では、生物の断片のような形態、植物を思わせる線、色彩の漂いが画面を満たしている。しかしそこに明確な物語は存在しない。

出典:Artpedia/アルシール・ゴーキー 「肝臓は鶏のとさか」

風景のようにも見える。

身体の内部のようにも見える。

記憶の断片のようにも見える。

それらは何かを再現しているのではなく、失われたものが痕跡として浮上してくる瞬間を描いている。

ここで重要なのは、ゴーキーが故郷を直接描かなかったことである。

出典:Artpedia/アルシール・ゴーキー 「滝」

彼は民族的物語や歴史画へ向かわなかった。むしろ故郷を失った経験そのものを、線や色彩や有機的形態へ変換していく。その結果、彼の絵画では風景と身体、植物と記憶、抽象と具象が溶け合いながら共存する。

その姿勢は、同時代のシュルレアリスムとも響き合っている。しかしゴーキーの画面には、夢の自由さよりも、むしろ失われたものへの静かな執着が漂っている。

それは幻想ではなく記憶であり、無意識というより追憶に近い。

出典:Artpedia/アルシール・ゴーキー 「ソチの庭園」

そしてその追憶は、やがてアメリカの抽象表現主義へ受け継がれていく。感情を直接描くのではなく、形態そのものへ染み込ませる方法。その意味でゴーキーは、ヨーロッパの前衛と戦後アメリカ美術を接続する重要な橋でもあった。

カツカレーカルチャリズムの視点で見れば、彼は皿の上に「失われた故郷の記憶」と「モダニズムの抽象言語」を同時に盛りつけたのである。

そしてその味は、もはやどちらか一方へ分離することができないほど深く混ざり合っていた。

出典:Artpedia/アルシール・ゴーキー 「花の水車」

PSコラム:思い出される形 ― ミロとゴーキー

アルシール・ゴーキーの《ソチの庭園》を見ていると、しばしばジョアン・ミロを思い出す。

画面を漂う有機的な形態。植物とも生物とも文字ともつかない線。
広い余白の中に浮かぶ記号のような断片。一見すると両者はよく似ている。
しかし見続けていると、どこか決定的な違いがあることに気づく。

ミロの形は、驚くほど迷いがない。鳥は鳥として。星は星として。記号は記号として。

それぞれが画面の中に自然に定着している。
まるで世界そのものが最初からそういう形をしていたかのようである。

出典:Artpedia/ジョアン・ミロ「耕された畑」
出典:Artpedia/ジョアン・ミロ「リズミカルなキャラクター」
出典:Artpedia/ジョアン・ミロ「脱出はしご」
出典:Artpedia/ジョアン・ミロ「オランダのインテリア」
出典:Artpedia/ジョアン・ミロ「オランダのインテリア」

一方、ゴーキーの形はどこか揺れている。植物のように見えたものは身体にも見え、身体のように見えたものは風景にも見える。輪郭は定まりきらず、形は絶えず別のものへ変化しようとする。
そこには何かを探るような手つきが残っている。

その違いは、おそらく二人が向き合っていたものの違いでもある。

出典:Artpedia/アルシール・ゴーキー 「すきと歌」

ミロは世界を自らの記号へ変換していった。

それに対してゴーキーが向き合っていたのは、失われた故郷の記憶だった。
《ソチの庭園》の「庭園」は、目の前にある庭ではない。

出典:Artpedia/アルシール・ゴーキー 「ソチの庭園」

幼少期に見た風景。母と過ごした時間。すでに失われてしまった土地。
そうしたものが記憶の奥から断片的に浮かび上がっている。
だからゴーキーの線は、形を決定する線であると同時に、失われたものを呼び戻そうとする線でもある。

ミロが形を発明しているように見えるのに対し、ゴーキーは形を思い出そうとしているように見える。

そのわずかな違いが、《ソチの庭園》に独特の切なさを与えているのである。

出典:Artpedia/アルシール・ゴーキー 「ソチの庭園」

カツカレーカルチャリズム画家列伝29 ~アーシル・ゴーキー 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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