ウータン・クランの『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』、いわゆる「燃えよウータン」を初めて聴いたとき、強烈だったのは、その音が当時のヒップホップの「強さ」と少し違っていたことだった。
音は籠っている。サンプルは埃っぽく、ドラムは少し潰れ、何かがきれいに分離されているわけでもない。音圧で押してくるというより、暗い場所から音が浮かび上がってくる。
そこに突然、カンフー映画の台詞が入る。

ニューヨークのストリートと中国の武術映画。一見すると遠く離れた二つの世界だが、ウータンはその距離を説明しない。ただ、並べてしまう。
当時はこれを「カンフー映画をサンプリングした」と考えていた。しかし、RZAのその後の仕事を聴くと、もっと単純なことだったのではないかと思えてくる。

彼らはカンフーやサムライを、必ずしも深く理解しようとしていたわけではない。
かっこよかったのだ。
動き、声、間、衣装、刀、戦い方。そこに漂う異様な緊張感や、現実とは少し違う世界の空気。それらを知識として分析する前に、身体が「いい」と反応している。
だからRZAの編集には、学者的な編集とは違う層がある。
素材について正確に知り、その意味を理解してから引用するのではない。まず感覚が反応し、その感覚に合うものを持ってくる。

RZAのビートにも同じところがある。一つのビートを何度も練り上げ、完璧な構造を作り込むというより、そのときのムードに合う音を選び、組み合わせていく。粗いものもあれば、音が濁っているものもある。しかし、それぞれが同じ暗さ、同じ温度、同じ埃っぽさを持っている。
重要なのは、一曲の完成度だけではなく、世界の空気をつくることだったのかもしれない。
ただし、RZAの作品がいつでも同じ強度を保っているわけではない。作品によっては、持ち味が十分に発揮されていないように感じることもある。だからこそ、映画『ゴースト・ドッグ』のラップ入りサウンドトラック『The Album』(サントラのラップ入り盤)を聴くと、彼の制作感覚がいつも以上に生き生きと働いているように思える。

その背景には、映画という仕事の条件もあったのではないだろうか。
通常のアルバム制作では、プロデューサーは楽曲を成立させ、アルバム全体のまとまりをつくる必要がある。しかし、映画にはすでに映像があり、登場人物がいて、物語がある。音楽は、それらと関係を結びながら、新しい役割を得る。
しかも、『ゴースト・ドッグ』の世界そのものが、RZAの感覚と相性のよいものだった。
ジム・ジャームッシュが描くのは、現代のアメリカの都市に暮らす黒人の殺し屋でありながら、日本の武士道に従って生きる男である。主人公は鳩を飼い、『葉隠』を読み、イタリア系マフィアの世界で仕事をしている。
ここには、異なる文化や価値観が同時に存在している。しかし、それらは一つの思想に整理されたり、きれいに溶け合ったりするわけではない。

RZAが以前から惹かれてきた武術映画の世界と、ジャームッシュがつくり出した独特の空気。その二つが出会ったことで、彼の感覚が自然に働く場所が生まれたのではないだろうか。
サムライという題材も、単なる仕事上の依頼以上の意味を持っていた可能性がある。カンフー映画の台詞や動きに惹かれてきた感覚が、別の文化的な題材に接続する。そこには、以前から好きだったものを、新しい世界の中で使い直す面白さがあったのかもしれない。
もちろん、実際の制作意欲を外側から断定することはできない。それでも、この作品からは、RZAが自分の関心を制作へと結びつけ、そこから音楽を展開していく喜びが感じられる。

映画では、フォレスト・ウィテカー演じる主人公ゴースト・ドッグが、日本の武士道に惹かれ、『葉隠』を読みながら自分の生き方を組み立てている。ここでは「サムライ」は単なる引用ではない。主人公の生き方そのものになっている。
その映画の世界を背景にした『The Album』を聴くと、RZAがつくっている音楽は、主人公のように一人で閉じたものではないことがわかる。
RZAの暗く、低く、少し埃っぽい音の上に、クールGラップ、ジェル・ザ・ダマジャ、アフー・ラ、サンズ・オブ・マン、12 オ‘クロック、マスター・キラ、ロイヤル・ファム、ラ・ザ・ダークマンなど、さまざまなラッパーが入ってくる。それぞれが異なる声とスタイルを持っている。

ここが面白い。
RZAがすべての声を自分の色に染めてしまうのではない。
まずRZAが、暗い床をつくる。
その上に、それぞれ違うラッパーが乗ってくる。
Kool G Rapの硬質な声も、ジェル・ザ・ダマジャとアフー・ラのラップも、サンズ・オブ・マンの集団的な響きも、完全に同じものにはならない。それでも、RZAがつくった音の場所に入ると、不思議と一つの世界の中に聞こえる。
彼は、自分以外の人間が入ってきても、その個性が失われないような場所をつくっている。
だから『The Album』には、『燃えよウータン』とは少し違う風通しがある。

『燃えよウータン』では、ウータン・クランという集団そのものが、一つの濃密な世界をつくっていた。ところが『The Album』では、その世界に別のラッパーが出入りする。
カンフー映画、サムライ、ソウル、ヒップホップ。そこにクールGラップやジェル・ザ・ダマジャたちの声が重なる。
しかも、それらはきれいに混ざりきらない。だからこそ、それぞれの輪郭が残る。
RZAがつくっているのは、すべてを統一する音ではなく、違うものが同じ場所に存在できる音なのかもしれない。
ここで、『燃えよウータン』のときには見えにくかったRZAの編集感覚が、はっきりしてくる。
RZAが編集しているのは、文化そのものというより、文化から受け取った感覚なのではないか。
サムライを研究するのではない。カンフーを正確に再現するのでもない。

「この感じが好きだ」という感覚を手がかりに、まったく異なるものを隣に置いていく。そして、できあがった場所に他人の声まで入れてしまう。
サンプリングの面白さも、そこにある。
数分間の映画を理解しなくても、数秒の台詞や声だけを取り出せる。曲全体を説明しなくても、一つの音やフレーズだけを持ってくることができる。
そして、その断片が「かっこいい」と思った瞬間、自分の世界の中に置く。
RZAの面白さは、まったく新しい音を発明したことだけにあるのではない。好きだと思ったものを、別の文化の中へ持ち込めること。そして、その場所を自分だけの閉じた世界にせず、別のラッパーや別の音が入ってこられるようにしておくことにある。
『The Album』は、その方法が映画という別の媒体との仕事を通じて、さらに広がった作品だった。
そして、もう一つ重要なのは、作家の能力が、いつでも同じように発揮されるわけではないということだ。
RZAの持ち味は、特定の音色やビートの形式だけに宿っているのではない。何に惹かれ、どのような素材と出会い、どんな場所でそれらを組み合わせるかによって、その姿を変える。

『The Album』では、映画の世界とRZA自身の関心が結びつき、そこにさまざまなラッパーの声が加わった。その環境が彼の編集感覚を引き出し、一人の作家の様式を超えた広がりを生み出している。
「燃えよウータン」のときには、ただ奇妙で、暗くて、カッコいいと思っていた音。
その背後にあったのは、もしかすると一貫した思想ではなかった。
もっと身体的なものだった。
世界を理解してから編集するのではない。
好きだと思った世界を、感覚のまま編集してしまう。
そして、その編集によってできた場所に、別の文化、別の音、別の身体が入ってくる。
RZAは世界を完成させるのではなく、世界が生まれるための床をつくる。
その床には、最初から少し余白が残されている。

ロバート・ゴーバー ─ 日常を少しだけずらす
ロバート・ゴーバーの作品を見ると、最初に「なんだこれは」と思う。
壁から人間の脚だけが生えている。
洗面台がある。
ベッドがある。
子どものような身体の一部が置かれている。
どれも、どこかで見たことのあるものだ。しかし、少しだけおかしい。

ゴーバーは日用品や身体を、現実にありそうな形で作る。ところが、それを本来あるはずのない場所に置くことで、日常の風景をわずかにずらしてしまう。
そのずれは、冗談のようにも見える。
「壁から脚が出ている」

それだけなら、ちょっとした悪ふざけにも見える。しかし、いつまでも笑ってはいられない。
そこには身体、孤独、欲望、死、記憶、宗教など、かなり重いものが沈んでいる。けれどもゴーバーは、それらを大きな物語として説明しない。むしろ、妙なものを妙なまま置いておく。
謎めいている。でも、謎解きを要求しているわけではない。

ふざけているようにも見える。でも、決して軽くない。
そのどちらとも決めきれないところに、ゴーバーの作品の面白さがある。
重要なのは、日用品や身体を精巧に再現することだけではない。見慣れたものが、本来とは違う場所に置かれたとき、私たちの感覚がどう変わるかということだ。

洗面台は洗面台のままである。脚も脚のままだ。しかし、それらがいつもの場所から離れると、急に見知らぬものに見えてくる。
これは、世界を完全に作り直すことではない。
ほんの少しずらすことで、世界の見え方を変えることだ。

ゴーバーの作品には、強い主張が前面に出てこない。その代わり、見慣れたものに対する作家自身の微妙な違和感が、作品を動かしているように見える。
なぜ、これを作るのか。
なぜ、ここに置くのか。
その理由は、必ずしも一つの意味に回収できない。
そう考えると、ゴーバーの作品は一種の編集として見ることもできる。

ただし、知識によって世界を分類する編集ではない。「これはこういう意味だから、ここに置く」という編集でもない。
もっと身体的で、個人的な編集だ。
見慣れたものを手に取り、少しだけ場所を変えてみる。すると、それまで気づかなかった不安や欲望、記憶の気配が立ち上がってくる。
ゴーバーは、日常の外側に別の世界を作り出すというより、日常そのものに潜んでいた異様さを、目の前に引き出しているのかもしれない。

その作品には、独特の「かっこよさ」とも違う魅力がある。
派手ではない。ヒーロー的でもない。大きな声で何かを主張するわけでもない。
ただ、本人にしかわからないような微妙な感覚を手放さず、見慣れた世界の配置を変えてしまう。
その小さなずれが、見る人の中に長く残る。
世界を説明するのではなく、世界の置き方を変える。
ゴーバーの作品は、そのための静かな編集なのだ。

仮面としての中国、都市の暗部としてのリズム ― バルトーク《中国の不思議な役人》とウータン・クラン『燃えよウータン』 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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