ナズ(Nas)とヒット-ボーイ(Hit-Boy)は、2020年から2023年までのわずか数年の間に、6枚のアルバムを作った。
『キングス・ディジーズ(King’s Disease)』、『キングス・ディジーズII』、『キングス・ディジーズIII』、そして『マジック(Magic)』、『マジック2』、『マジック 3』。
一人のラッパーと一人のプロデューサーが、これほど短い期間に6枚を続けて作るのは、それだけでもかなり特殊なことだ。

しかも、この6枚は最初から計画されていたわけではない。
二人は「6枚のシリーズを作ろう」とスタジオに入ったのではなかった。
最初は、もっと小さなところから始まっている。
ナズは以前からヒット-ボーイと仕事をしたいと思っていた。共通の友人を通じてスタジオに誘われ、LAで一緒に制作を始める。ナズ自身の話によれば、最初からアルバムを作るつもりではなく、まずは1曲くらいできればいいという感覚だった。
ところが、その1曲を作るためのセッションが続いていく。

ヒット-ボーイはナズが来る前にビートやフックのアイデアを用意しておき、スタジオでそれを聴かせる。ナズはそれを聴きながら、その場でフロウを探していく。
完成したビートにラップを後から乗せるというより、ビートを聴いたナズの反応そのものが、次の制作を決めていく。
ヒット-ボーイもまた、その反応を聴いてビートを変える。
その場にあるものに反応し、その反応を次の音へ返していく。
だから制作が止まらない。
1曲ができる。
その曲をきっかけに次のビートができる。
ナズがまた違うラップをする。

それを聴いたヒット-ボーイが、さらに別の音を出す。
そうして気がつけば、1曲のつもりだったものがアルバムになっていた。
ここに、この二人の関係の特徴がある。
ヒット-ボーイはナズを「現代化」するためにビートを作ったわけではない。
ナズもまた、30年かけてつくってきた自分のスタイルを、そのまま新しいビートに押し込もうとしたわけではない。
二人の間に、もっと小さな循環がある。
ヒット-ボーイがビートを出す。
ナズが反応する。
その反応によってビートの意味が変わる。
そして、その新しいビートによってナズのラップも変わる。
『キングス・ディジーズ』を聴くと、その変化がよく分かる。

『イルマティック』以来の強い個性は残っている。
しかし、そこにサウス以降の3連のリズムやトラップの低音、現代的なビートの揺れが入り込んでくる。
するとナズのラップも変わる。
3連に入ったり、拍を少し外したり、ときには少し不安定に聞こえる瞬間さえある。
それが面白い。
ナズは自分のスタイルを守るためにビートを従わせるのではなく、ビートに合わせて自分のラップを変えている。
ヒット-ボーイも、ナズを無理に現代化しない。
ナズの声、キャラクター、ニューヨークの背景、30年というキャリアを見ながら、現代的な音をどこまで入れられるのかを探っている。
振り切らない。
ナズが変わる余地を残したまま、ビートをつくる。

そして二人の制作は、かなり小さな単位で行われていた。
ヒット-ボーイ自身が録音やボーカル・プロデュースまで担当し、スタジオに大勢の人間を入れず、二人の反応がそのまま次の工程につながるような環境をつくっていた。
これは、たくさんのプロデューサーやソングライターがアイデアを持ち寄り、最後にアルバムとして編集するような大規模な制作とは少し違う。
二人の間で音が行ったり来たりする。
その小さな循環を繰り返す。
『キングス・ディジーズ』には、その最初の勢いが残っている。
COVID-19によって制作が一度止まった時期もあったが、二人は再びスタジオに戻り、アルバムを完成させた。
そして、その作品が評価されると、今度はその成功が次の制作を呼ぶ。

『キングス・ディジーズII』では、最初の作品で生まれた方法がさらに自然になっている。
ナズはヒット-ボーイのビートの中で、以前より自由に身体を動かしている。
ヒット-ボーイも、単に「ナズに合う音」を探すのではなく、ナズがどう反応するかを含めてビートを作っている。
Ⅰが発見、Ⅱが拡張。
そして『キングス・ディジーズIII』では、その試行が一つの世界としてまとまってくる。

ここまで来ると、二人が相性のいいラッパーとプロデューサーだというだけでは足りない。
相手の反応そのものが、自分の制作材料になっている。
だから、同じことを繰り返しているようで、実際には少しずつ作り方が変わっていく。
ところが、『マジック』に入ると空気が変わる。
『キングス・ディジーズII』が全米1位になった後、二人がその成功を祝っていた時、ヒット-ボーイはそこで終わろうとしなかった。
むしろ、すぐにもう一作やろうという話になった。
普通なら、成功したアルバムの後には少し時間を置く。
しかし二人の場合、成功そのものが次の制作を始める理由になってしまう。
こうして『マジック』が生まれる。
『マジック』では、大きな構造をつくることよりも、その瞬間に出てきたものを残すことが重要になっている。
ふっと出てきたフロウや言葉、ビートとの一瞬の反応を、そのまま掴んで定着させたような感じがする。

だから『マジック』には、少し行間がある。
つくり込んでいないのではない。
つくり込みすぎない。
『キングス・ディジーズ』では、ナズが新しいビートの環境に入っていくことが面白かった。
『マジック』では、二人がすでに共有している環境の中で、どこまで軽く、速く、直感的に作れるかが面白くなっている。
そして、この制作速度そのものが、二人の関係を象徴している。
『マジック2』を経て、『マジック3』へ進む。

そこでは、前作で余った曲を整理して次のアルバムにしたというより、前の作品が終わると、また次の制作が始まっていく。
一枚を完成させることが、制作の終了ではなく、次の制作の条件になっている。
この6作品を続けて聴いていると、ヒット-ボーイがナズに新しい型を与えたというより、ナズが自分の型を持ったまま、そこから少しずつ外へ出ていったように感じる。
そしてナズが変わることで、ヒット-ボーイのビートもまた変わっていく。
最初は「ナズに現代的なビートを合わせる」ことだったものが、次第に「ナズと一緒に、まだない音を探す」ことへ変わっていく。
これは、単純な「ナズの現代化」ではない。
むしろ、二人の相性とは、最初から完璧に噛み合っていたということではないのだと思う。

相手の出したものに反応する。
その反応を次の制作に持っていく。
そこで少し自分を変える。
そして、変わった相手を見て、また自分も変える。
その循環が止まらなかった。
だから、1曲のつもりだった制作がアルバムになり、そのアルバムが次のアルバムを呼び、結果として6枚になった。
30年かけてつくってきた自分を壊したわけではない。
その自分を別の環境に置き、そこで起きた変化を次の制作へ持っていった。
『キングス・ディジーズ』から『マジック3』までの時間は、ナズが自分のスタイルを守った時間ではなく、自分のスタイルを持ったまま、それをどこまで変形できるかを試した時間だった。
そしてその変化を生んだのは、一方的な「プロデュース」ではなく、二人の間で制作が回り続けたことだった。

アンソニー・カロ ── 関係をつくり直す彫刻
アンソニー・カロの彫刻を見ると、鉄という素材そのものが大きく変わったわけではないことに気づく。
梁、板、棒。
工業製品のような部材を組み合わせ、それぞれの位置と関係によって作品をつくっていく。

重要なのは、何を使ったかだけではない。
それをどこに置き、どの方向に向け、何と接続するか。
一つの部材を動かせば、全体のバランスまで変わる。
カロにとって彫刻とは、完成した形をつくることというより、要素同士の関係を組み替えることだった。

だから作品には、固定された「カロらしい形」があるというより、そのつど異なる構造が生まれる。
これはナズとヒット-ボーイの関係を考えるときにも重なる。
ヒット-ボーイはナズそのものを作り替えない。
ナズの声、キャラクター、これまでの歴史を残したまま、新しいビートを置く。
するとナズのラップの置き方が変わる。
その反応を聴いて、今度はヒット-ボーイのビートも変わっていく。

つまり、一方が完成したものをもう一方に合わせるのではなく、相手の出したものによって、自分の配置も変えていく。
素材を変えるのではなく、関係を変える。
そして、変わった関係を次の制作へ持っていく。 カロの彫刻には、そうした関係の組み替えによって、同じ部材から別の構造を生み出す自由がある。

カール・アンドレ ─ 必要なものを置く
カール・アンドレの彫刻は、さらに要素を減らしていく。
レンガ。
金属板。
同じ単位を並べ、床に置く。
それだけなのに、そこに新しい空間が生まれる。

アンドレは、彫刻家が何か特別な形を「つくる」という考えから離れ、ものを置くという行為そのものを作品にした。
だから重要なのは、何かを付け加えることではない。
何を残し、どこに置くか。
そして、置いたものが周囲の空間や見る人の身体とどう関係するか。
この感覚は、『マジック』のナズに少し似ている。
『キングス・ディジーズ』から続く制作の中で、ナズとヒット-ボーイはすでに互いの反応を知っている。
だから『マジック』では、一から大きな構造を設計する必要がなくなっている。
ヒット-ボーイがビートを出す。
ナズが反応する。
その瞬間に出てきたフロウや言葉を残す。

そして、そこに必要以上の説明を加えない。
一つの言葉。
一つのフロウ。
一つのビート。
それらを置くことで、音の間に余白が生まれる。
だから『マジック』には、行間がある。
つくり込んでいないのではない。
二人の間ですでに制作が回っているからこそ、つくり込みすぎずに次へ進める。
アンドレの彫刻も、置かれたものそのものだけではなく、それによって生まれる空間を見るように促す。
『マジック』もまた、すべてを説明するのではなく、置かれた音と言葉の間に、聴く側が入り込む余地を残している。
つくることから、置くことへ。
そして、置いたものを過剰に説明せず、次へ進むこと。
その小さな変化の中に、成熟した表現の強さがある。



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