原石とハブ
セルゲイ・プロコフィエフ と ドミートリイ・ショスタコーヴィチ は、20世紀ロシア音楽を代表する作曲家としてしばしば並べて語られる。
両者はともに優れたピアニストであり、巨大なオーケストラを扱う作曲技術を持ちながら、《ヴァイオリン協奏曲第1番》という、一本の線によって音楽を成立させる形式に向かった。


この共通点は興味深い。
なぜなら、オーケストレーションの達人が単線楽器を書くとき、そこには単なる縮小ではなく、音の焦点化、選択、価値の圧縮が起こるからである。
しかし実際に二つの作品を聴くと、その焦点化の方向は驚くほど異なる。
そこには技法以上に、価値をどこへ置くかという作曲観の差が現れている。
プロコフィエフの《ヴァイオリン協奏曲第1番》は、1915〜17年に作曲された。

革命直前のロシアではあるが、まだ芸術の側には形式更新への期待と国際的前衛への接続可能性が残っていた時代である。若い作曲家にとって、新しさとは意味の問題ではなく、形式そのものの発明だった。
この協奏曲も当初はヴァイオリニストの パヴェウ・コハンスキ が関与する可能性があったが、実現には至らず、初演は後年に マルセル・ダリュー が担った。
この経緯は象徴的である。
作品は特定の演奏家との関係より先に、すでに自律した構造として存在している。

実際、この音楽には独特の滑らかさがある。
技巧的な局面や舞踊的推進があっても、音は常に自らの内部理由によって進んでいく。
独奏は世界と対立しない。
触れ、撫で、輪郭を確かめながら進む。
演奏家の個性は現れる。しかし作品の重心は大きく動かない。
どこを切っても同じ結晶構造が現れる。
その意味で、プロコフィエフの協奏曲は原石に近い。
価値は接続によって生まれるのではなく、すでに作品内部へ圧縮されている。
演奏家はその価値を掘り起こし、角度を変え、光を当てる。
しかし中心は動かない。
対して、ショスタコーヴィチの《ヴァイオリン協奏曲第1番》は別の条件から生まれる。
1947〜48年。

戦後のソ連では文化統制が強まり、芸術は単なる形式ではなく、社会の中で意味を与えられるものになっていた。
作品は演奏されるだけでは終わらない。
解釈され、位置づけられ、評価される。
芸術は外部から常に意味を要求される。
その状況の中で、この協奏曲はすぐには公表されず、発表延期を経験する。
さらに重要なのは、この作品がヴァイオリニスト ダヴィッド・オイストラフ に献呈され、彼との対話を通じて成立していったことである。
ここでは作品は完成品として先に存在していない。
演奏家という身体、解釈という行為を通じて重心を獲得する。

その性格が最も現れるのが、第3楽章パッサカリアから終楽章へ接続する巨大なカデンツァである。
ここで独奏者は自由になるわけではない。
むしろ音楽の意味の責任を引き受ける。
歌うのか。
耐えるのか。
思考するのか。
観察するのか。
沈黙として置くのか。
同じ音価、同じ楽譜でも、演奏者によって音楽の温度と方向は大きく変わる。
オイストラフの厚く人間的な読みに近づくこともできる。
そこから距離を取り、構造や透明性へ向かうこともできる。
ここでは演奏とは再現ではない。
価値の再配置である。

その意味で、ショスタコーヴィチの協奏曲は原石ではなくハブに近い。
価値は内部へ固定されず、作曲家、初演者、後続演奏家、聴き手、時代を接続することで生成される。
同じ近代の風を受けながら、二人は異なる方向へ進んだ。
一方は、作品内部へ価値を結晶化した。
もう一方は、価値が生まれる場を作品として残した。
それは自由と不自由の差ではない。
世界との接続の仕方の差である。
音そのものに価値を閉じ込めるのか。
それとも、価値が生まれる位置を開いておくのか。
《ヴァイオリン協奏曲第1番》という近い形式の比較は、その違いを驚くほど鮮明に映し出している。
そしてその差異は、音楽だけではない。 価値がどこに宿るのかという、いま私たちが空間や時間について考える問いへも、静かにつながっているのかもしれない。
結晶化する近代、接続される価値 ― レジェとクルーガー
プロコフィエフとショスタコーヴィチの《ヴァイオリン協奏曲第1番》を比較していると、価値の置き方そのものが異なっていることに気づく。
前者では価値は作品内部へ圧縮され、後者では接続によって生成される。
この差異は、美術に置き換えるなら、フェルナン・レジェとバーバラ・クルーガーの対比に近いのかもしれない。
フェルナン・レジェの画面には、近代そのものへの信頼がある。
機械。
都市。
速度。
分節化された身体。

それらはバラバラに配置されながら、最終的には強固な秩序へ統合される。円筒、色面、輪郭線は互いに噛み合い、画面はどこを切っても同じ結晶構造を保っている。
レジェの作品では、ノイズですら構造へ回収される。
そこでは価値は画面内部に存在する。

鑑賞者はその価値を読み取り、視線を移動し、リズムを追う。しかし作品の重心そのものは揺らがない。
これはプロコフィエフの音楽に近い。
技巧的で、鋭く、時に機械的ですらある。しかし音は常に自らの内部理由によって進行していく。演奏家がどれだけ個性を加えても、最終的には作品の構造そのものへ回収される。
価値は接続によって発生するのではなく、すでに内部へ結晶化されている。

一方、バーバラ・クルーガーの作品は別の場所に立っている。
写真。
広告。
政治。
ジェンダー。
命令文。
それらは単独で完結したイメージではなく、社会の中に流通している記号を接続し直すことで成立している。
《YOUR BODY IS A BATTLEGROUND》のような作品において重要なのは、画面の完成度だけではない。

その言葉が誰に向けられているのか。
広告なのか、批判なのか。
権力なのか、抵抗なのか。
意味の重心は固定されず、見る側の位置、時代、制度との関係によって移動する。
作品は価値そのものではなく、価値が生成される場になる。

ここにショスタコーヴィチとの近さがある。
彼の《ヴァイオリン協奏曲第1番》は、演奏家によって音楽の定位が大きく変わる。とりわけ第3楽章から終楽章へ接続する巨大なカデンツァでは、独奏者は単に音を再現するのではなく、その音へどの温度を与えるかを選び続ける。
告白なのか。
思考なのか。
抵抗なのか。
空白なのか。
同じ楽譜でも、意味の重力は演奏者ごとに変化する。
そこでは作品は閉じた物体ではない。
作曲家、演奏家、聴き手、時代を接続するハブとして機能する。

興味深いのは、この二つが単なるモダニズムとポストモダニズムの差ではないことである。
レジェもクルーガーも、それぞれ異なる方法で社会と接続している。
ただ、その接続の仕方が違う。
レジェは価値を内部へ圧縮し、構造として安定させる。
クルーガーは価値が生成される接触面そのものを作品化する。
その違いは、作品とは何かという問い以上に、価値がどこで生まれるのかという問いへつながっている。
そしてそれは、現在の私たちが空間や時間をどう経験するかという問題とも、静かに接続しているのかもしれない。

以下のサイトで、ショスタコーヴィチ《ヴァイオリン協奏曲第1番》オイストラフ/ミトロプーロス&ニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団の演奏が聴けます。(音源とスライドショー)
Shostakovich:Violin Concerto#1 in am-Opus 99-Oistrakh/Mitropoulos&N.Y. Phil. Or.


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