混ぜすぎた美術史 99 ~フィリップ・ガストン

アート

フィリップ・ガストン(1913–1980、カナダ/アメリカ)

絵画は再び世界へ帰る ─ 純粋性のあとに残ったもの

フィリップ・ガストンは、抽象表現主義の中心にいながら、その成功から自ら離れていった画家である。

1950年代、彼は抽象表現主義を代表する画家の一人として高く評価されていた。繊細な筆触と淡い色彩が重なり合い、画面には静かな緊張感が生まれている。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「ゾーン」

そこには、絵画そのものの自律性を追求した時代の成果があった。

しかし1960年代の終わり、ガストンは突然その世界を離れる。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「To B.W.T」

画面に現れたのは、靴、煙草、時計、電球、レンガ、そしてフードを被った人物だった。しかも、それらは漫画のように単純化され、荒々しい筆致で描かれている。

なぜ、抽象表現主義を代表する画家が、いまさらこんなものを描くのか。

その転換を考えるとき、ガストン自身が語った一つの場面が興味深い。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「エビデンス」

1968年ごろ、彼は約一年半、ほとんど絵を描かず、線を極端に減らしたドローイングを続けていた。絵画をどこまで純粋にできるのか。その問いを、いわば自分自身に突きつけていたのである。

ところが、その先で逆の欲望が生まれた。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「ドローイング」

「触れることのできるもの」を描きたくなった。

そして最初に目に入ったのが、特別なものではなかった。

床に置かれた自分の靴。
机の上の本。
電球。
椅子。

彼はそうした身の回りのものを描き始めた。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「ドローイング」

これは少し奇妙な出来事である。

抽象表現主義の画家が、世界を描くために外へ出たのではない。
むしろ、スタジオの中にあったものを見直したのである。

一冊の本を描く。
ただそれだけのことを、何度も繰り返す。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「机の上の本」

ガストンは、ひとつのものに近づいていくと、それが別のものに変化して見えてくると語っている。本は石にも、板にも、別の形にも見えてくる。

つまり、具象へ戻ることは、現実をそのまま写すことではなかった。

現実そのものが、すでに十分に抽象的で、十分に謎めいていた。

ここには、ガストンの絵画観の大きな変化がある。

抽象表現主義では、絵画から余計なものを取り除くことで、画面そのものの存在を強くすることができた。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「ザ・ライン」

しかしガストンは、そこまで削ったあとで気づく。

絵画の外に追い出したものも、また世界だった。

靴。
本。
電球。
壁。
煙草。

それらは崇高なモチーフではない。
歴史的な事件を表す象徴でもない。

ただ、毎日そこにある。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「ベッドの中のカップル」

そして、この「ただそこにあるもの」への視線とほぼ同じ時期に、ガストンは外の世界にも強く反応していた。

ベトナム戦争、公民権運動、暴動、政治的な混乱。

テレビや雑誌から流れ込んでくる現実を前に、彼は、自分が家で世界の出来事に怒りながら、スタジオへ入ると「赤を青に調整している」だけでいいのか、と自問した。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「スタジオの風景」

この感覚が、彼を具象へ押し戻していく。

ただし、彼が描いたのはニュースの挿絵ではなかった。

最初に描いたのは、やはり靴や本や電球だった。

そしてやがて、フードを被った人物が現れる。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「スタジオ」

それは、彼が若いころから記憶していたクー・クラックス・クランのイメージだった。

1960年代のアメリカで再び人種的暴力が現実味を増すなか、その記憶が戻ってきたのである。ガストンは彼らを単純な怪物として描くのではなく、煙草を吸い、酒を飲み、車に乗り、テーブルを囲むような、ごく日常的な姿で描いた。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「市の境界」

ここが、ガストンの具象の不気味なところである。

悪は、特別な場所にいる怪物ではない。

靴を履き、
煙草を吸い、
電球の下に座り、
仲間と話している。

つまり、世界の暴力もまた、日常のなかに存在している。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「絵を描く、煙草を吸う、食べる」

だからガストンの具象は、抽象表現主義以前の絵画への単純な回帰ではない。

彼は抽象を捨てたのではなく、抽象を経験したまま、もう一度ものを見ることを始めた。

形は単純化され、輪郭は揺れ、色彩は厚く重なる。具象的なモチーフを描いていても、画面のなかには抽象表現主義の経験が残っている。

抽象を捨てて具象へ戻ったのではない。
抽象を経験したまま、具象を描いた。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「フロアー」

だから、一冊の本でさえただの本では終わらない。

靴も、電球も、レンガも、フードも、見慣れた形から少しずつ別のものへ変わっていく。

ガストンが開いたのは、純粋性を否定することではなかった。

絵画を極限まで純化したあとで、もう一度、世界に触れること。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「エーゲ海Ⅲ」

そのとき世界は、以前よりも単純ではなくなっている。

むしろ、靴ひとつ、本一冊のなかにさえ、見知らぬものが潜んでいる。

抽象表現主義は、絵画を世界から自由にすることで、その可能性を大きく広げた。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「どちらも」

ガストンは、その自由を使って、再び世界を見た。

そしてその世界には、崇高なものだけではなく、靴も、煙草も、壁も、電球も、暴力も、記憶もあった。

絵画は、世界から離れることで終わるのではない。

一度そこから離れたからこそ、戻ったときに、見慣れたものを別のものとして見ることができる。

ガストンの転換は、そのための新しい視線だったのである。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン「炎」

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