現代の絵画において、像はもはやひとつの意味やかたちとして定まるものではなく、完成された画面という価値そのものが不安定な状態に置かれている。
その背景には、流通するイメージと多様な解釈が絶えず交錯している状況がある。

こうした状況に対し、セシリー・ブラウン と アルベルト・オーレン は、ともに既存の絵画観を揺さぶりながらも、異なる経路からそれに迫っている。ブラウンが身体的な筆致によって像の生成過程を画面にとどめるのに対し、オーレンはイメージや様式を出発点としながら、それらを身体的な揺れの中に巻き込み、その意味を撹乱する。

ブラウンの絵画において、像は身体的な運動の中から立ち上がり、同時に崩れ続ける。描くことは制御しきれないプロセスであり、意味はあらかじめ存在するのではなく、時間の中で遅れて生成される。絵画に時間が必要であるとは、鑑賞の速度を遅らせること以上に、像が成立しきらない状態を持続させる条件を意味している。そこに現れるほころびは、生成が完了しないことそのものの痕跡である。

ブラウンの絵画はしばしば、ウィレム・デ・クーニング と比較される。両者はいずれも激しい筆致と身体的な運動を画面に刻み込み、抽象と具象のあいだを往復する点で共通している。しかし、その類似は表層的な運動にとどまる。

デ・クーニングにおいては、身体や対象との直接的な関係の中で像が歪みながら生成されるのに対し、ブラウンにおいては、すでに存在する複数のイメージの層が交錯し、その混成の中から像が立ち上がる。言い換えれば、前者が現実との格闘の中で像を変形させるのに対し、後者はイメージの氾濫する環境の中で、それらを溶かし合わせながら新たな像を生成しているのである。

ここで想起されるのが、抽象表現主義において提示された「作品とは観者とのあいだに生じる出来事である」という見方である。再現や主題を中心とした絵画から、制作行為や知覚の経験そのものへと関心が移行するなかで、作品は固定された意味や像ではなく、見ることの中で立ち上がる出来事として捉えられるようになった。

この通奏低音は、ブラウンとオーレンの双方にも響いている。
しかしその出来事の性質は異なる。ブラウンにおいてそれは、生成の過程に巻き込まれる身体的な経験として現れる。観者は像を読み取るのではなく、その立ち上がりの運動に参与する。

これに対しオーレンにおいては、意味や制度的文脈に基づく判断が宙吊りにされる認識的な経験として現れる。観者は理解しようとするが、その確定はつねに先延ばしにされる。

オーレンの絵画に目を向けると、像はすでに流通するイメージとして前提されている。しかし彼はそれらを単に操作するのではなく、身体的な筆致の揺れや不安定なフォルムの生成と重ね合わせることで、整合性を崩し、意味の確定を宙吊りにする。ここで引き延ばされるのは生成の時間ではなく、解釈の時間である。意味は存在しながらも決定されず、その状態が維持される。画面に現れるきれつは、視覚的なコードや制度の内部に生じた亀裂として機能する。

しかしこの操作は、単なる解体にとどまらない。オーレンの絵画においては、スタイルそのものが成立しかけては崩される。一定の形式が確立され、それが反復されるという通常の意味での「生成」はここでは回避される。
むしろ彼は、生成された様式を連続的に破壊し、同一の形式が固定されない状態を持続させる。すなわちオーレンにおいて生成とは、新たな像を生み出すことではなく、同一の様式が成立しないようにする運動そのものなのである。

両者はともに即時的な理解を拒むが、その時間の質は異なる。ブラウンにおいては意味が生まれるまでの時間が引き延ばされ、オーレンにおいては意味を確定するまでの時間が保留される。前者が身体的プロセスに根ざした生成の持続であるのに対し、後者は制度的なイメージの操作であると同時に、生成の固定化を回避する別種の運動として展開される。現代の絵画は、この二つの経路のあいだに張り詰めている。

この対比は、近代における絵画の転換へと遡ることができる。
ポール・セザンヌ において、像は固定された対象の再現ではなく、見るという行為のプロセスの中で生成されるものとなった。画面に残るズレや不連続は、知覚が統一されきらないことの現れであり、ここに絵画は完成された像ではなく、生成の場として捉え直される。このときすでに、絵画の内部にはきれつが導入されていた。

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さらに、マルセル・デュシャン 以降、芸術はその成立条件そのものを問い返す契機を内包するようになる。何が作品を作品たらしめるのかという問いは、制度、文脈、観者といった外部の要素を含み込み、絵画は自己完結的な領域ではいられなくなる。しかしこの批評性はやがて形式として流通し、その一部が抽出され、スタイルとして運用される状況も生まれる。

こうして見ると、ブラウンとオーレンの差異はより明確になる。ブラウンの絵画は、像が生成されるプロセスを身体的な次元において持続させるのに対し、オーレンの絵画は、イメージと身体、制度的条件が交錯する場として画面を組み替え、その読みを宙吊りにすると同時に、スタイルの固定そのものを回避する。前者が制御しきれない運動に身を置く行為であるならば、後者はルールや文脈を前提としながら、それ自体を絶えず逸脱していく実践である。


そしてこの両者に共通しているのが、画面に現れる「きれつ」である。それは単なる不完全さではなく、像が成立する過程、あるいは成立条件そのものが露出したものであり、絵画がもはや閉じた統一体として存在しえないことを示している。それはブラウンにおいては生成の過程に生じるほころびとして、オーレンにおいては制度やイメージの断絶として現れる。


今日、AIによって瞬時に精密なイメージが生成され、SNS上ではスクロールごとに無数の刺激が押し寄せる環境において、こうした絵画の存在はなお有効である。絵画は完成された像としてそこにあるのではなく、生成と解釈、身体とイメージのあいだで、時間をかけて呼吸し、鑑賞者に思考や感覚の余白を与える。そこにこそ、瞬間的に消費される画像にはない、絵画ならではの力がある。
そう、絵画は現代においても、静かに息をし、時間のあいだに生き続けている。
カツカレーカルチャリズム画家列伝87 ~オーレン 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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