混ぜすぎた美術史 105 ~カラーフィールド・ペインティング ─ 色を食べる絵画

アート

抽象表現主義のあと、美術は、巨大な絵画に含まれていたさまざまな要素を分解し始めた。

ミニマル・アートは、形や構造を必要最小限まで削った。

コンセプチュアル・アートは、作品を物質からアイデアへと移した。

そして、アルテ・ポーヴェラ、シュポール/シュルファス、もの派、ロングなどは、物質、場所、関係、行為、時間といった別の栄養素を取り出していった。

美術は、抽象表現主義という巨大な総合栄養食を分解し、それぞれの成分を別々に摂取し始めたのである。

出典:Artpedia/バーネット・ニューマン「カテドラ」

では、そのなかで「色」はどうなったのか。

色もまた、純化された。

ただし、ミニマルとは違う方向へ進んだ。

カラーフィールド・ペインティングである。

出典:Artpedia/ヘレン・フランケンサーラ―「山と海」

ここでは、絵画から物語やイメージが取り除かれていく。

しかし、その代わりに色が薄くなるわけではない。

むしろ逆だ。

色は巨大になる。

画面は大きくなり、色は広がり、染み込み、漂い、光のようになっていく。

作品を「理解する」というより、目と身体そのものを画面にさらす。

目の前に巨大な色の皿が置かれ、そのまま視覚で食べてしまうような感覚さえある。

ミニマルがカロリーメイトなら、カラーフィールドはパフェかもしれない。

出典:Artpedia/フルーツパフェ

必要な栄養素だけを取り出すのではなく、一つの味を徹底的に濃くする。

色、光、空間、スケール。

その組み合わせを、理屈より先に身体へ届ける。

だからカラーフィールドは、形式主義的には「純粋な色彩と平面」の問題として説明できる。

しかし、実際の作品を前にすると、それだけでは足りない。

そこには、かなり濃厚な「気持ちよさ」がある。

出典:Artpedia/モーリス・ルイス「静けさの場所」

これは単なる装飾ではない。

抽象表現主義が持っていた身体性や巨大な画面を、別の方法で引き継いだ結果でもある。

抽象表現主義が、身体を使って画面をつくったとすれば、カラーフィールドは、見る者の身体を色の前に置く。

その違いは小さいようで、大きい。

モーリス・ルイスは、絵具を筆で塗りつけるという絵画の基本から離れていく。

薄く流された絵具はキャンバスに染み込み、画面そのものが色を受け入れる。

出典:Artpedia/モーリス・ルイス「アルファ-パイ」

そこでは「画家が色を描いた」という痕跡さえ希薄になる。

絵具は描かれるものではなく、キャンバスの中へ浸透していくものになる。

色が、画面の上に置かれるのではなく、画面になる。

ケネス・ノーランドは、円や同心円、ストライプといった単純な形と色彩を組み合わせる。

しかし、その形は何かを表すためのものではない。

出典:Artpedia/ケネス・ノーランド「干ばつ」

円が「円である」こと。

色が「その色である」こと。

その単純な関係が、画面全体の知覚を組み立てていく。

ここでは、色は形を塗るためのものではなく、形そのものになる。

ジュールズ・オリツキーは、スプレーガンなどを用い、絵具を吹きつけることで、筆触の存在をさらに遠ざけた。

色は輪郭の内側に閉じ込められず、画面のなかに霧のように広がっていく。

出典:Artpedia/ジュールズ・オリツキー「インスタント・ラブランド」

「描かれた色」から、「そこに漂っている色」へ。

カラーフィールドは、ここで絵画でありながら空気に近づいていく。

ラリー・プーンズは、色や形を反復させながら、画面に視覚的なリズムをつくっていく。

出典:Artpedia/ラリー・プーンズ「ジェシカのハートフォード」

色は静止した面ではなく、目のなかで動き始める。

絵を見ることが、画面を読み取ることではなく、視覚そのものを動かされる経験になっていく。

フリーデル・ズーバスの絵画では、色の境界が柔らかくほどけ、画面そのものが発光しているように見える。

色は物質でありながら、物質から離れていく。

出典:Artpedia/フリーデル・ズーバス「アスコナ」

絵具がそこにあるというより、光がそこに生まれている。

絵画は「もの」から「現象」へ近づいていく。

カナダのジャック・ブッシュは、アメリカのカラーフィールドと共鳴しながら、色彩と形の関係を独自に展開した。

ここでカラーフィールドは、ひとつのアメリカ美術の様式ではなくなっていく。

出典:Artpedia/ジャック・ブッシュ「ダウン・アンド・アクロス」

同じ「色の純化」でも、土地が変われば、その現れ方も変わる。

純粋化されたはずの色は、再び世界のなかへ広がっていく。

こうして見ると、カラーフィールドは「何もない絵画」ではない。

むしろ、余計なものを取り除いたことで、色そのものが過剰になった絵画である。

染み込む。

形になる。

漂う。

動く。

光になる。

そして、広がる。

抽象表現主義が身体を使って絵画をつくったとすれば、カラーフィールドは見る者を色のなかへ入れていく。

巨大な色の前に立つと、作品を眺めているはずの自分の視覚そのものが変化していく。

それは、栄養素を効率よく摂取する美術とは違う。

必要だから食べるのではない。

おいしいから、もう一口食べる。

カラーフィールドは、純粋性を突き詰めながら、いつの間にか「快楽」の側へ流れ出していた。

しかし、パフェを食べ終わるころには、もう少し何かを足したくなる。

出典:Artpedia/ストロベリーパフェ

色だけを見つめているうちに、絵画には別のものが欲しくなってくる。

身体。

物語。

人物。

歴史。

汚れ。

欲望。

純粋な色だけでは満たされないものが、再び画面の外側から見えてくる。

それは、カラーフィールドが失敗したということではない。

むしろ、純粋性を突き詰めたからこそ、そこからこぼれ落ちていたものが見えてきたのだ。

絵画は、もう一度トッピングを始める。

色だけではなく、世界そのものを、もう一度画面へ戻していく。 純粋な美術だけでは、世界は食べきれない。

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