抽象表現主義のあと、美術は、巨大な絵画に含まれていたさまざまな要素を分解し始めた。
ミニマル・アートは、形や構造を必要最小限まで削った。
コンセプチュアル・アートは、作品を物質からアイデアへと移した。
そして、アルテ・ポーヴェラ、シュポール/シュルファス、もの派、ロングなどは、物質、場所、関係、行為、時間といった別の栄養素を取り出していった。
美術は、抽象表現主義という巨大な総合栄養食を分解し、それぞれの成分を別々に摂取し始めたのである。

では、そのなかで「色」はどうなったのか。
色もまた、純化された。
ただし、ミニマルとは違う方向へ進んだ。
カラーフィールド・ペインティングである。

ここでは、絵画から物語やイメージが取り除かれていく。
しかし、その代わりに色が薄くなるわけではない。
むしろ逆だ。
色は巨大になる。
画面は大きくなり、色は広がり、染み込み、漂い、光のようになっていく。
作品を「理解する」というより、目と身体そのものを画面にさらす。
目の前に巨大な色の皿が置かれ、そのまま視覚で食べてしまうような感覚さえある。
ミニマルがカロリーメイトなら、カラーフィールドはパフェかもしれない。

必要な栄養素だけを取り出すのではなく、一つの味を徹底的に濃くする。
色、光、空間、スケール。
その組み合わせを、理屈より先に身体へ届ける。
だからカラーフィールドは、形式主義的には「純粋な色彩と平面」の問題として説明できる。
しかし、実際の作品を前にすると、それだけでは足りない。
そこには、かなり濃厚な「気持ちよさ」がある。

これは単なる装飾ではない。
抽象表現主義が持っていた身体性や巨大な画面を、別の方法で引き継いだ結果でもある。
抽象表現主義が、身体を使って画面をつくったとすれば、カラーフィールドは、見る者の身体を色の前に置く。
その違いは小さいようで、大きい。
モーリス・ルイスは、絵具を筆で塗りつけるという絵画の基本から離れていく。
薄く流された絵具はキャンバスに染み込み、画面そのものが色を受け入れる。

そこでは「画家が色を描いた」という痕跡さえ希薄になる。
絵具は描かれるものではなく、キャンバスの中へ浸透していくものになる。
色が、画面の上に置かれるのではなく、画面になる。
ケネス・ノーランドは、円や同心円、ストライプといった単純な形と色彩を組み合わせる。
しかし、その形は何かを表すためのものではない。

円が「円である」こと。
色が「その色である」こと。
その単純な関係が、画面全体の知覚を組み立てていく。
ここでは、色は形を塗るためのものではなく、形そのものになる。
ジュールズ・オリツキーは、スプレーガンなどを用い、絵具を吹きつけることで、筆触の存在をさらに遠ざけた。
色は輪郭の内側に閉じ込められず、画面のなかに霧のように広がっていく。

「描かれた色」から、「そこに漂っている色」へ。
カラーフィールドは、ここで絵画でありながら空気に近づいていく。
ラリー・プーンズは、色や形を反復させながら、画面に視覚的なリズムをつくっていく。

色は静止した面ではなく、目のなかで動き始める。
絵を見ることが、画面を読み取ることではなく、視覚そのものを動かされる経験になっていく。
フリーデル・ズーバスの絵画では、色の境界が柔らかくほどけ、画面そのものが発光しているように見える。
色は物質でありながら、物質から離れていく。

絵具がそこにあるというより、光がそこに生まれている。
絵画は「もの」から「現象」へ近づいていく。
カナダのジャック・ブッシュは、アメリカのカラーフィールドと共鳴しながら、色彩と形の関係を独自に展開した。
ここでカラーフィールドは、ひとつのアメリカ美術の様式ではなくなっていく。

同じ「色の純化」でも、土地が変われば、その現れ方も変わる。
純粋化されたはずの色は、再び世界のなかへ広がっていく。
こうして見ると、カラーフィールドは「何もない絵画」ではない。
むしろ、余計なものを取り除いたことで、色そのものが過剰になった絵画である。
染み込む。
形になる。
漂う。
動く。
光になる。
そして、広がる。
抽象表現主義が身体を使って絵画をつくったとすれば、カラーフィールドは見る者を色のなかへ入れていく。
巨大な色の前に立つと、作品を眺めているはずの自分の視覚そのものが変化していく。
それは、栄養素を効率よく摂取する美術とは違う。
必要だから食べるのではない。
おいしいから、もう一口食べる。
カラーフィールドは、純粋性を突き詰めながら、いつの間にか「快楽」の側へ流れ出していた。
しかし、パフェを食べ終わるころには、もう少し何かを足したくなる。

色だけを見つめているうちに、絵画には別のものが欲しくなってくる。
身体。
物語。
人物。
歴史。
汚れ。
欲望。
純粋な色だけでは満たされないものが、再び画面の外側から見えてくる。
それは、カラーフィールドが失敗したということではない。
むしろ、純粋性を突き詰めたからこそ、そこからこぼれ落ちていたものが見えてきたのだ。
絵画は、もう一度トッピングを始める。
色だけではなく、世界そのものを、もう一度画面へ戻していく。 純粋な美術だけでは、世界は食べきれない。

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