混ぜすぎた美術史 135 ~中村宏

アート

中村宏(1932~2026、日本)

どこかで見たことのある風景

中村宏の絵には、どこかで見たことがあるようなイメージが現れる。

列車を描いた作品には、後年のアニメーション『銀河鉄道999』を思わせる感覚がある。少女の顔には、漫画雑誌『ガロ』に通じるような、少し不安定で、どこか現実から浮き上がった表情が見える。

出典:Artpedia/中村宏『観光帝国」

もちろん、特定の作品を引用しているというわけではない。しかし、画面を見ていると、漫画や映画、雑誌の挿絵など、さまざまな視覚文化の記憶が呼び起こされる。

出典:Artpedia/中村宏『火事と少女」

興味深いのは、それらがはっきりとした引用として現れるのではなく、絵画の中に自然に滲み込んでいることだ。ポストモダンのコラージュのように、異なるイメージの出所を示したり、引用関係を露わにしたりするわけではない。むしろ、どこから来たのかわからないイメージの記憶が、描かれた風景や人物の中に入り込んでいる。

出典:Artpedia/中村宏『鉄道の夢」

中村が活動を始めた戦後の日本では、漫画、映画、雑誌、広告などの視覚文化が急速に広がっていった。人々が目にするイメージの種類も増え、現実を見る経験そのものが変わっていく。私たちは目の前の風景を直接見ているつもりでも、実際には、それまでに見てきた映画や漫画、写真などの記憶を通して世界を認識している。何かを見たときに、別の何かを思い出す。その連想は必ずしも意識的なものではなく、ものの見方や感じ方の中にすでに入り込んでいる。

出典:Artpedia/中村宏『基地」

中村の絵画には、そうした視覚経験の変化が現れているように思う。写実的な風景の中に漫画的な人物が登場しても、それほど不自然には感じられない。両者は異なる表現形式でありながら、同じ時代の視覚文化の中で育ってきたものだからだ。写実と漫画という区別は、描き方の違いではあっても、必ずしも異なる世界を意味しない。むしろ、私たちの記憶の中では、それらはすでに混ざり合っている。

出典:Artpedia/中村宏『ある肖像」

ここで重要なのは、中村がそうしたイメージを単純に並べているのではないということだ。漫画的な線や人物の形が、写実的な空間の中に入り込むとき、元のイメージは少しずつ変化する。見覚えがあるのに、どこか違う。何かを思い出しそうなのに、特定の記憶にはたどり着かない。その曖昧さが、画面に独特の時間を生み出している。

出典:Artpedia/中村宏『円環列車B」

それは、異なるイメージを貼り合わせるコラージュとは少し違う。むしろ、記憶の中でいくつものイメージが重なり、互いに影響しながら別の姿になっていく過程に近い。ある時代の漫画を思い出したかと思えば、別の時代の映画やアニメーションが浮かんでくる。作品の中にあるのは、特定のイメージの再現ではなく、さまざまなイメージが残した感触なのだ。

出典:Artpedia/中村宏『望遠鏡」

こう考えると、中村の絵画は、現実を描くこととイメージを描くことの境界を問い直しているともいえる。現実は、目の前にあるものだけでできているわけではない。過去に見たもの、誰かから聞いた話、メディアを通して知った出来事などが積み重なり、私たちが現実だと思っているものを形づくっている。中村の画面では、その積み重なりが一つの風景として現れる。

この感覚は、後年のポップアートやポストモダンの表現とも接点を持ちながら、少し異なる位置にある。引用元を示すことや、イメージの消費を批評することが中心なのではない。イメージが人間の記憶や感覚に入り込み、いつの間にか自分のものになっている。その状態を、絵画として受け止めているのだ。

出典:Artpedia/中村宏『戦下の顔」

だから中村の絵には、懐かしさと不気味さが同時にある。どこかで見たことがあるという親しさと、何を見ているのかすぐにはわからないという戸惑い。その二つが画面の中で分離せずに存在している。過去のイメージは、そのまま保存されるのではなく、別のものと出会うことで少しずつ姿を変えていく。 中村宏は、イメージを引用するのではなく、イメージの記憶そのものを描いた画家なのかもしれない。そこでは現実も漫画も映画も、異なる出所を持ちながら、同じ記憶の中に積み重なっている。彼は皿に、写実的な風景と漫画の線描と、映画やアニメーションの記憶を盛ったのだ。

出典:Artpedia/中村宏『望遠鏡 富士山 女学生に関する芸術と国家の諸問題」

カツカレーカルチャリズム画家列伝98 ~中村宏 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

コメント

タイトルとURLをコピーしました