混ぜすぎた美術史 133 ~日本における祝祭の時代と、信じきれない現実Ⅱ

アート

現実はどのようにつくられるのか

前回見たように、1970年前後の日本では、経済成長、政治運動、前衛芸術のそれぞれが、異なる問題に直面していた。

経済成長は豊かな未来を約束する一方で、公害や環境破壊、都市の急激な変化を生み出していた。政治運動は社会の仕組みを変えようとするなかで、その内部に矛盾や行き詰まりを抱えていた。そして美術の世界でも、それまでの表現や制度を乗り越えようとする試みが、さまざまな方向へ広がっていた。

出典:Artpedia/高速道路の建設、都市開発

こうした状況のなかで、作家たちは何を見ていたのだろうか。

彼らの関心は、単に新しい表現を生み出すことだけではなかった。私たちが現実だと考えているものは、そもそもどのように成立しているのか。見ること、認識すること、身体を持つこと、時間を生きること。それらの前提そのものを問い直すような作品が現れ始めていた。

草間彌生の作品では、同じ形や模様が際限なく反復され、増殖していく。水玉や網目は画面のなかにとどまらず、周囲の空間や見る側の身体にまで広がっていく。そこでは、物と物、身体と外部との境界が不安定になり、世界がひとつのまとまった像として見えること自体が揺らいでいる。反復は単なる装飾ではなく、見ることや存在することの感覚を変えてしまうものだった。

出典:Artpedia/草間彌生「無限の網」

中村宏の絵画には、人物や機械、建築、乗り物、記号的なイメージなどが、独特の緊張感をもって組み合わされている。そこに描かれるものは、現実をそのまま再現した風景ではない。社会のなかに流通するイメージや、歴史のなかに蓄積された記憶が、絵画のなかで組み替えられている。見慣れたものが別のものに見え始めるとき、私たちが現実として受け取っているイメージもまた、何らかの仕組みによってつくられていることが浮かび上がる。

出典:Artpedia/中村宏「基地」

工藤哲巳は、身体や生命を固定されたものとしてではなく、環境や科学技術との関係のなかで変化し続けるものとして捉えた。作品には、増殖する器官や異様な生物のような形態が現れ、身体と機械、自然と人工物の境界が曖昧になっていく。そこには、科学技術が人間の未来を切り開くという期待だけでなく、それによって人間そのものが変質してしまうことへの不安もある。生命をひとつの完成した形として見るのではなく、周囲の環境と結びつきながら変化する存在として捉え直していた。

出典:Artpedia/工藤哲巳「汚染ー養殖ー新しいエコロジー」

中西夏之は、ハイレッド・センターの活動などを通じて、日用品や身体、行為といったものを作品の問題として扱いながら、やがて絵画の可能性を探っていった。彼にとって絵画は、あらかじめ決められたイメージを画面に定着させることではなかった。描く身体と素材、画面と空間、見る位置との関係のなかで、絵画がどのように成立するのかを問い続けていた。自分のなかにできた決まりを壊し続けるという姿勢にも、制作のなかで得た手応えを安易に定着させない、繊細な距離の取り方が表れている。

出典:Artpedia/中西夏之「韻」

宇佐美圭司は、人物や身体のイメージを幾何学的な構成や記号と結びつけ、個人の内面だけでは捉えきれない社会や歴史の構造を絵画のなかに取り込んだ。人間の姿は、ひとりの人物を描くためのものというより、社会のなかに置かれた存在のあり方を示すものでもある。身体を記号や構造と結びつけることで、個人と社会、具体的な人間と抽象的な仕組みとの関係を問い直していた。

出典:Artpedia/宇佐美圭司「時の橋を渡るNo.1」

黒田アキの作品では、身体や文字、線、異なる時間や空間に属するイメージが交差する。そこでは、ひとつの世界を整然と描き出すというより、さまざまな要素が互いに影響し合いながら、ひとつの場をつくり出している。作家自身も、あらかじめ確立された自我によって世界を統御するというより、異なるイメージやエネルギーが通過し、接続される媒体のような存在になっていく。作品は、ひとつの意味に収束することなく、複数の関係が生まれる場所となっている。

出典:Artpedia/黒田アキ「裏返しに」

荒川修作は、言葉や図形、記号を用いて、見ることと理解することの関係を問い直した。作品のなかでは、言葉は何かを説明するためだけに使われるのではなく、見る側の認識を揺さぶる要素として働いている。私たちは目の前にあるものを見ているつもりでも、実際には言葉や知識、習慣によって、その見方を組み立てている。荒川の作品は、そうした認識の仕組みを表面に引き出し、見ることそのものを不確かなものにしていく。

出典:Artpedia/荒川修作「無題No.3」

松澤宥は、物質的な作品をつくることから離れ、言葉や観念によって芸術の存在条件を問い直した。作品が物として存在すること、目に見える形を持つことは、本当に必要なのか。芸術を成立させているものを根本から問い直すことで、作品のあり方を大きく広げようとした。そこでは、何かをつくることだけでなく、何を作品と考えるのかという認識そのものが制作の対象になっていた。

出典:Artpedia/松澤宥「消滅」

河原温は、日付や時間といった誰もが共有する記号を用いて、存在することや時間を生きることを記録した。そこでは、個人的な感情や物語を語る代わりに、日付という最小限の情報が画面に置かれる。毎日を生き、その日を記録するという行為が、作品の形式そのものになっている。時間を表現するというより、時間のなかに存在することを、一定の規則に従って示し続けたのだ。

出典:Artpedia/デイト・ペインティング

斎藤義重は、素材や構造、操作の痕跡を通じて、形がどのように生まれるのかを問い続けた。作品は、完成した形を見せるだけのものではなく、素材に働きかける行為や、そこに生じる変化を含んでいる。何かを表現するために形をつくるのではなく、形を生み出す操作そのものを作品の問題として扱っていた。

出典:Artpedia/斎藤義重「作品7」

ここまで見てきた作家たちは、それぞれ異なる方法で制作している。イメージを増殖させる者もいれば、身体の境界を揺さぶる者、言葉や概念によって認識の仕組みを問い直す者もいる。時間を記録することや、素材に働きかける行為そのものを作品にする者もいた。共通した運動や思想にまとめられるわけではないが、彼らの作品には、私たちが現実として受け取っているものの成立条件を問い直そうとする姿勢が見えてくる。

絵画や立体だけでなく、写真の世界でも、現実とイメージの関係を問い直す動きが現れていた。

森山大道ら『プロヴォーク』に関わった写真家たちは、ブレやボケ、粗い粒子などを用いて、写真が現実を正確に写し取るという前提を揺さぶった。都市の風景や街に流通するイメージを断片的に捉えることで、写真は現実を明らかにするものというより、現実の不確かさを露出させるものへと変わっていく。

出典:Artpedia/森山大道「にっぽん劇場写真帖」より

一方、荒木経惟は、日常や私的な経験を撮影することで、写真を自分自身が生きることと結びつけていった。そこでは記録と演出、現実と物語が入り混じり、撮影することによって現実そのものが組み立てられていく。写真は、すでに存在する現実を保存するだけでなく、撮影し、選び、並べることによって、現実の見え方をつくり出す媒体でもあった。

出典:Artpedia/荒木経惟「センチメンタルな旅」より

その後、杉本博司は、写真という媒体を通じて、現実を認識する仕組みそのものを問い直していく。人工的につくられた風景を本物の自然のように見せたり、映像の時間を一枚の静止した画面へと変えたりすることで、写真が現実を記録するものだという前提を反転させた。森山や荒木とは異なる方法で、写真と現実の関係をさらに掘り下げている。

出典:Artpedia/杉本博司「劇場」シリーズ

こうした問題は、その後の美術にも引き継がれていく。

岡崎乾二郎の作品は、その展開を考えるうえでひとつの参照点となる。岡崎は、形を完成した意味の器として扱うのではなく、形態が別の形態へと変化し、見る側の認識が組み替えられていく過程に注目している。そこでは、何が描かれているかだけでなく、形がどのように生まれ、どのように見られるのかが重要になる。作品は、固定された意味を伝えるものではなく、見ることや考えることが動き出す場になっている。

出典:Artpedia/岡崎乾二郎

祝祭の熱気のなかにも、すでに生まれ始めていたものがあった。

万博や高度経済成長が未来への期待を大きく膨らませていた一方で、作家たちは、その未来を支える現実の仕組みや、私たち自身の認識のあり方に目を向けていた。社会や政治、美術の制度が提示する枠組みからこぼれ落ちるものに注意を向け、何を現実と呼び、何を作品と呼ぶのかを問い直していたのである。

未来そのものが失われたわけではない。しかし、未来を無条件に信じることが難しくなったとき、作家たちは未来像を提示することよりも、私たちが世界をどのように見ているのかを問い直し始めたのだ。

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