H.R.ギーガー(1940–2014、スイス)
生物と機械のあいだ
H.R.ギーガーの絵を見ると、まず「これは何なのだろう」と思う。
人間のようにも見える。
動物のようにも見える。
しかし、どちらでもない。
骨のようなものがあり、管やコードのようなものがあり、黒く滑らかな表面がある。
それが身体なのか、機械なのか、建築なのかも分からない。

ギーガーは、こうした世界を「バイオメカニカル」と呼ばれる独自の造形へと発展させた。
有機物と機械。
生物と人工物。
身体と装置。
本来なら別々に分類されるものが、彼の画面では最初からひとつのものとして存在している。
だから、怖い。
しかし、それは単純に怪物が怖いということではない。

何を生物と呼び、何を機械と呼ぶのか、その境界そのものが分からなくなることが怖いのである。
身体が機械になる
ギーガーは1940年、スイスのクールに生まれた。
チューリヒで建築とインダストリアル・デザインを学び、1960年代からインク、油彩、彫刻などを制作する。
やがてエアブラシを使い始めると、滑らかな黒と灰色のグラデーションによって、金属のようでも肉体のようでもある独特の表面をつくり出していった。
ここで面白いのは、彼が機械を描いているわけではないことだ。
歯車やエンジンを写実的に描くのではない。

むしろ、身体のほうが機械に近づいていく。
骨は管になる。
脊椎は装置になる。
血管のようなものが配線に見える。
筋肉のようなものが金属の表面へ変わっていく。
しかも、それらは完全に機械化されるわけではない。
機械の内部に肉体が残り、肉体の内部に機械が入り込んでいる。

だから、どこまでが身体なのか分からない。
「気持ち悪い」の正体
ギーガーの絵には、明らかな嫌悪感がある。
昆虫、蜘蛛、骨、歯、管、傷口、性器のような形。
身体の内部を思わせるものが、外側に露出している。
普通の身体は、皮膚によって内側と外側を分けている。
ギーガーは、その境界を壊してしまう。

内部が外に出る。
機械が内部に入る。
身体が建築物のようになる。
そして建築物まで、巨大な身体のように見えてくる。
だから彼の作品には、単なるSFとは違う「気持ち悪さ」がある。
未知の生物だから怖いのではない。
自分の身体と無関係だと思っていたものが、実は身体の延長だったように見えてしまう。

それが、ギーガーの不気味さである。
エイリアンが現実になる
この造形が決定的に広がったのが、映画『エイリアン』だった。
ギーガーの《ネクロノムIV》は1976年に制作された作品で、映画『エイリアン』より前にすでに存在していた。
リドリー・スコットは『H.R. ギーガーのネクロノミコン』に掲載されたこのイメージを見て、映画のクリーチャーの方向性を見いだした。

つまり、ギーガーは映画のために「怖い宇宙生物」をゼロから考えたのではない。
すでに自分の絵の中に存在していた生物が、映画の身体として現実になったのである。
1979年の『エイリアン』では、ギーガーの造形が実際のセットやクリーチャーとして巨大化する。

頭部は異様に長く、身体には骨格のような構造があり、管が伸びている。
しかし、それが何の生物なのかは最後まで完全には説明されない。
昆虫のようでもあり、爬虫類のようでもあり、人間のようでもあり、機械のようでもある。
まさに「分類できない身体」だ。
ギーガーはこの仕事によって1980年にアカデミー賞視覚効果賞を受賞した。

生物の境界が溶ける
ここまで来ると、ギーガーの「エイリアン」は単なる宇宙人ではなくなる。
むしろ、生物というカテゴリーそのものが変形したものに見えてくる。
人間。
動物。
昆虫。
植物。
機械。
建築。
それぞれの境界が少しずつ溶けていく。

この感覚は、彼が建築やインダストリアル・デザインを学んだこととも無関係ではないだろう。
建築は人間の身体を包む。
機械は人間の身体を拡張する。
都市は巨大な人工環境になる。
そしてギーガーは、それらをひとつの身体のように扱う。
彼の絵では、身体が機械になり、機械が建築になり、建築が巨大な生物になる。

だから画面全体が、ひとつの生命体の内部のように見えてくる。
もう一つの現代性
ここで、今回の章の「もう一つの現代性」とつながってくる。
戦後の現代性は、科学技術によって世界を細かく分類し、管理し、機能へ分けていった。
人間と機械。
自然と人工。
生物と非生物。
身体と情報。

ギーガーは、その反対側から世界を見る。
分類されたものを、もう一度つなぎ直してしまう。
しかも、きれいに融合させるのではない。
どこか不自然なまま接続する。
だから美しいのに気持ち悪い。
未来的なのに古代生物のようでもある。
人工的なのに肉体的である。

そして、エイリアンのようなのに、どこか自分自身の身体を見ているようでもある。
ベクシンスキが「文明のあとに残った世界」を描いたとすれば、ギーガーはその世界を構成していた生物と機械の境界そのものを溶かしてしまった。
幻想は、もう別世界を描くためのものではない。
現実の分類を壊し、私たちが当たり前だと思っていた身体そのものを、別のものへ変えてしまう。
『エイリアン』によってそのイメージは映画館に入り、巨大なスクリーンの上で動き始めた。
絵画の中でしか存在しなかった異形の身体が、大衆文化の中で「実在するもの」のようになったのである。 彼は皿に、生物と機械、身体と建築を、溶け合うバイオメカニカルというルーで煮込んだのだ。


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