エイサップ・ロッキー『LIVE.LONG.A$AP』『AT.LONG.LAST.A$AP』 ─ 存在そのものをスタイルにする

音楽

エイサップ・ロッキーの音楽には、どこか冷ややかな感覚がある。

重いベースと浮遊感のあるビート。ラップにはヒップホップらしい力強さがあるが、声も音も、どこか距離を置いているように聞こえる。

その感覚は、彼が音楽だけでなく、ファッションや映像を含めて、自分の存在そのものをスタイルとして組み立てていることと関係しているのかもしれない。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー

異なる音を、自分のスタイルにする

エイサップ・ロッキーはハーレム出身だが、従来のニューヨーク・ヒップホップとは少し違う場所から登場した。

2013年の1stスタジオ・アルバム『LONG.LIVE.A$AP』には、ニューヨークのラップを基盤にしながら、南部ヒップホップやサイケデリックな音響を取り込んでいく姿勢が表れている。

ヒューストンのチョップド&スクリュードや、メンフィスのダークなヒップホップにつながる音の感覚。そうした要素が、ロッキーの声やビートの中で組み直されている。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー「ロング・ライヴ.A$AP」

ただし、異なる地域の音をそのまま再現しているわけではない。

サウスの音が持つ粘りや重さを残しながら、そこにニューヨークらしい冷静さや、ファッションを意識したスタイルが加わる。

異なる音楽をひとつに溶かすというより、それぞれの特徴を残しながら、自分の感覚で組み合わせていく。

ロッキーの音楽には、地域やジャンルを移動することそのものを楽しむような軽やかさがある。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー

浮遊感を、ひとつのスタイルにする

ロッキーを考えるうえで、キッド・カディとの関係も興味深い。

カディの音楽には、孤独や内面への沈潜、夢の中を漂うような感覚がある。ロッキーにも似た浮遊感があるが、それは内面に閉じていくというより、都市や身体、ファッションへと広がっていく。

2ndスタジオ・アルバム『AT.LONG.LAST.A$AP』(2015)の「L$D」は、その特徴がよく表れた曲だ。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー「アット・ロング・ラスト.A$AP

サイケデリックな音と映像が結びつき、音楽そのものがひとつの視覚的な世界をつくり出している。

ロッキーは音の中に完全に溶け込むのではなく、その中に自分の声や身体を配置する。音楽、映像、ファッションが、それぞれ独立しながら、ひとつのスタイルを形づくっている。

この点で、同じく浮遊感やサイケデリックな音を取り入れるトラヴィス・スコットとの違いも見えてくる。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー

トラヴィスは、声をエフェクトやビートの中に溶け込ませ、低音や反復、空間的な音響によって、聴き手を音楽の中へ引き込んでいく。声そのものも音響の一部となり、聴き手は個々の音を追うというより、音楽がつくり出す世界に包み込まれる。

一方、ロッキーは音の中に身を置きながらも、自分の声や身体の存在感を残している。

トラヴィスが音楽によってひとつの世界をつくり、聴き手をその中に引き込むとすれば、ロッキーは音楽や映像の中に自分を配置し、異なるスタイルの間を移動していく。

もちろん、トラヴィスにもファッションやビジュアルの強い存在感があり、ロッキーの音楽にも没入感はある。ただ、表現の重心は少し違う。

トラヴィスが音響空間そのものを前面に押し出すのに対し、ロッキーは音と自分自身との関係を、ひとつのスタイルとして見せている。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー

音楽から、存在そのものへ

こうした姿勢は、ウータン・クランやジェイ・Z、カニエ・ウェストともつながっている。

ウータンはカンフー映画やロゴ、メンバーそれぞれのキャラクターを組み合わせ、音楽を超えた世界をつくった。

出典:Artpedia/ウータン、キャップ&パーカー

ジェイ・Zは音楽的な成功をビジネスや社会的な地位へと広げ、ラッパーの新しい成功像を示した。

カニエは音楽だけでなく、ファッションやデザイン、映像を通じて、自分自身を総合的な表現として扱ってきた。

出典:Artpedia/カニエ・ウエスト コーディネイト

それぞれ方向は異なるが、ラッパーの存在が音楽だけでは完結しなくなっていく流れが見えてくる。

ロッキーもまた、音楽とファッションを切り離さない。ただし、彼の場合は異なるスタイルの間を軽やかに移動する感覚が強い。

ストリートとハイファッション、南部の音とニューヨークの感覚、ヒップホップの力強さとサイケデリックな浮遊感。それらをひとつに溶かすのではなく、違いを残したまま組み合わせ、自分のスタイルにしていく。

リアーナとの結婚も、そうした彼の公的なイメージを考えるうえで無関係ではない。二人の関係は音楽の外側でも注目され、ファッションや映像を含む文化的な存在感にもつながっている。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー& リアーナ

もちろん、結婚や家族まで自己演出として片づけることはできない。ただ、ロッキーが音楽だけで完結するアーティストではないことは確かだ。

音楽をつくることと、自分がどのように見られ、どのような文化の中に存在するかということ。その二つが、彼の活動では自然につながっている。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー

個性を、全体の中に配置する

かつてラッパーの個性は、声やフロウ、リリックの強さによって際立つことが多かった。

しかし現在では、ビートの選び方、映像、服装、発言、日常のイメージまでが、アーティストの表現を構成している。

インターネットやSNSによって、音楽とその外側にある生活や人間関係も、ひと続きのイメージとして見られるようになった。

その結果、個性を強く打ち出すだけでなく、さまざまな要素の中に自分をどう配置するかが重要になっている。

ロッキーは、音楽を中心にしながらも、その外側にあるファッションや映像、異なる文化との接続を通じて、自分の存在を多方向に広げていく。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー

音楽を聴くことは、単に曲を聴くことにとどまらない。そこから見えてくる服装や映像、身体の見せ方までが、ロッキーというアーティストの印象を形づくっている。

もちろん、イメージが前に出すぎれば、音楽そのものが後ろに退いてしまう危険もある。それでもロッキーの音楽には、音の重なりや質感を組み立てる面白さがある。

彼にとって音楽は、自分を表現するための唯一の場所ではない。音楽を含むさまざまな要素を使って、自分という存在全体をスタイルにしていく。

エイサップ・ロッキーの冷ややかさや浮遊感も、そうした感覚から生まれているのかもしれない。

個性をひとつの特徴に求めるのではなく、異なる要素を組み合わせた全体の中に、自分を置くこと。

そこには、音楽だけで完結するスターとは違う、現在的なアーティストのあり方が表れている。

出典:Artpedia/エイサップ・ロッキー

ケニー・シャーフ ─ 混ざり合う世界を、スタイルにする

ケニー・シャーフの作品を見ると、まず色彩とキャラクターの多さに目を引かれる。

奇妙な生き物、漫画のような人物、宇宙を思わせる形。画面には、さまざまなイメージが次々と現れる。

そこには、漫画やアニメ、SF、広告、ストリートカルチャーなど、異なる場所からやってきたものが混ざり合っている。

出典:Artpedia/ケニー・シャーフ「ワールズ・コライド」

しかし、それらは出自の違いを説明するために並べられているわけではない。

シャーフは、それぞれのイメージを自分の色彩や形、リズムの中に取り込み、ひとつの視覚世界へと変えていく。

シャーフが活動を始めた1970年代末から80年代のニューヨークでは、ストリートカルチャーや音楽、ファッション、アートが互いに接近していた。

出典:Artpedia/ケニー・シャーフ「ジェットソンズ」

バスキアやキース・ヘリングらと同じ時代を過ごしたシャーフも、そうした環境の中で活動してきた。

彼の作品には、漫画のキャラクターやSF的な生き物など、大衆文化から生まれたイメージが数多く登場する。

美術にふさわしいものと、そうでないものを分ける必要はない。漫画やアニメも、絵画を構成する素材になる。

出典:Artpedia/ケニー・シャーフ「バーバラダイス」

ただし、シャーフは既存のキャラクターをそのまま並べているわけではない。

強い色彩や輪郭、形の反復によって、それぞれのイメージを自分独自の視覚言語へと変えている。

大衆文化を美術の中に持ち込むだけでなく、両者の境界そのものを曖昧にしていくのだ。

シャーフの絵画には、画面全体が動き続けるような感覚がある。

出典:Artpedia/ケニー・シャーフ「ラヴ」

強い色彩がぶつかり、奇妙なキャラクターが増殖し、ひとつの形が別の形へとつながっていく。

漫画のような親しみやすさがある一方で、生き物の形はどこか不気味でもある。明るく楽しい世界に見えながら、画面には過剰さや落ち着かなさも残っている。

異なるものを混ぜることによって、すべてが調和するわけではない。

親しみやすさと奇妙さ、楽しさと不穏さが同時に存在することで、画面に独特の勢いが生まれている。

出典:Artpedia/ケニー・シャーフ「ブロブジック」

シャーフにとって重要なのは、個々のイメージが何を意味するかだけではない。それらが同じ場所に置かれたとき、どのような感覚が生まれるかということだ。

同じ時代のニューヨークで活動したバスキアと比べると、その違いが見えてくる。

バスキアの画面には、黒人の歴史、ジャズ、スポーツ、解剖学など、さまざまな知識や記憶が入り込み、社会や歴史に結びついた緊張を生み出している。

一方、シャーフは、漫画やアニメ、SFなどのイメージを、色彩や形の運動へと変えていく。

出典:Artpedia/ケニー・シャーフ「エレミクロマクロ」

バスキアが異なる文化や記憶の衝突を画面に残すとすれば、シャーフは、それらを祝祭的な視覚世界へと変換していく。

どちらも高級美術と大衆文化の境界を横断しているが、その混ぜ方は違う。

シャーフの作品を見ていると、漫画やアニメ、SFといった文化の分類は、次第に重要ではなくなってくる。

出典:Artpedia/ケニー・シャーフ「人種絶滅」

それぞれがどこから来たのかを知ることはできる。しかし、画面の中では、それらはすでにシャーフ独自の色彩や形、リズムの一部になっている。

ここでは、何を引用したかだけでなく、何を選び、どう組み合わせたかが作家の個性になる。

異なる文化を取り込んでも、それらをひとつの純粋なものにまとめる必要はない。

それぞれの違いを残しながら、全体として自分にしかつくれない世界を成立させる。

出典:Artpedia/ケニー・シャーフ「終わりへの道は始まりの近くにある」

シャーフの作品には、そうした表現のあり方が見えている。

それは、音楽やファッション、映像を横断しながら、自分自身のスタイルをつくる現代のアーティストにもつながる感覚だ。

エイサップ・ロッキーもまた、異なる地域の音楽やファッションを取り込み、それらを自分の存在感へと結びつけている。

シャーフが色彩やキャラクターによって混ざり合う世界をつくるとすれば、ロッキーは音や服装、身体の見せ方によって、それを行っている。

表現の素材は違っていても、個性を何かひとつの特徴に求めるのではなく、異なるものを組み合わせる方法そのものに見いだしている点で、両者はつながっている。

出典:Artpedia/ケニー・シャーフ「コズミック・キャバーン」(インスタレーション)

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