時間の棚の上で
「アリゲーター・バイツ・ネバー・ヒール(Alligator Bites Never Heal)」 のジャケットを見ていると、不思議な感覚に出会う。
深い緑色の背景の前に座るドーチー。その膝には白いワニが抱えられている。

現代のポップスターの写真でありながら、どこか神話や寓話の挿絵のようでもある。その姿は現在に属しているはずなのに、同時にどこか時間の外側に置かれているように見える。
一方、ドージャ・キャットの『Vie』に触れていると、また別の感覚が生まれる。
そこには確かに現在のポップミュージックがある。しかし同時に、80年代ファンクや90年代ヒップホップ、そして青春時代に聴いた音楽の記憶がふと立ち上がる。

そのとき感じるのは懐かしさだけではない。
むしろ、自分が大切だと思っていた感覚が別の時代の中で生き続けていることへの喜びである。
興味深いのは、それらが過去への回帰として現れているわけではないことだ。
ドーチーもドージャ・キャットも、過去を再現しているのではない。


過去と現在を同じ平面の上に並べている。
かつて文化は時間軸の上に存在していた。
新しい作品とは過去を乗り越え、その先へ進むことだった。
しかし現在、私たちは音楽をプレイリストの中で聴く。
そこには プリンス も、90年代ヒップホップも、21世紀のポップも同時に並んでいる。

年代は異なっていても、再生ボタンを押した瞬間、それらはすべて同じ現在として現れる。
時間は連続する歴史ではなく、並置されたアーカイブになる。
そして、その中で作品の意味も変化していく。
以前なら作品は価値や意味を提示するものだった。
しかし現在の作品は、むしろ鑑賞者の内部に蓄積された経験や記憶を呼び起こす装置として機能しているように思える。
青春時代にプリンスを愛聴した人がドージャ・キャットを聴いたとき、そこにはプリンスの記憶だけではなく、その後に出会った無数の音楽や出来事も同時に立ち上がる。


ドーチーの「アリゲーター・バイツ・ネバー・ヒール」を見たときも同じだ。
ある人はヒップホップの歴史を見るだろう。
ある人は南部文化や神話的なイメージを感じるだろう。
また別の人は、幼い頃の物語や映画の記憶を思い出すかもしれない。
作品は意味を固定するのではなく、観測者の内部にある複数の時間を接続する。

だから現代の文化体験は、作品を理解することよりも、作品によって自分の内部で何が動き出すのかを経験することに近い。
私たちは作品を見ているようでいて、実際には作品を媒介として、自らの記憶や感情や知識を再配置しているのかもしれない。
その意味で、作品の価値もまた変化している。
作品が価値を提示するのではない。
作品との出会いによって、個人の中に蓄積された心の揺らぎや知識が再構築され、新たな価値が生成されるのである。

ドーチーやドージャ・キャットの魅力は、その音楽的な完成度だけにあるのではない。
それらが過去と現在を結び、自分の内部に存在する時間の層を呼び起こし、新しい関係を生み出すところにある。
現代の作品とは、新しい価値を示すものではなく、観測者の中に眠る価値を喚起する触媒なのかもしれない。
そして私たちは作品を鑑賞しているのではなく、作品との出会いを通して、自らの時間を再編集しているのである。

庵野秀明と文化の再配置
時間の棚を編集する人
庵野秀明の作品に触れていると、不思議な感覚に出会う。
そこには常に過去が存在している。
特撮、アニメ、SF映画、戦争映画、漫画、模型文化――。

彼の作品はそうした膨大な文化の記憶によって構成されている。
そのため庵野はしばしば「引用の作家」と語られる。
しかし、その本質は単なる引用ではないように思える。
例えば『新世紀エヴァンゲリオン』には、特撮やロボットアニメの記憶が数多く含まれている。

『シン・ゴジラ』には1954年版『ゴジラ』から続く歴史があり、『シン・ウルトラマン』や『シン・仮面ライダー』にもそれぞれ長い文化的蓄積が存在する。
だが庵野の作品は、それらを復元しようとしているわけではない。
むしろ異なる時代に属する記憶を現在という一点に並べ直している。

かつて文化は時間軸の上に存在していた。
新しい作品とは過去を乗り越え、その先へ進むことだった。
しかし現在、私たちは膨大なアーカイブの中で生きている。
過去の映画も音楽もアニメも、同じ画面の中で呼び出すことができる。
そこでは歴史は一本の流れではなく、無数の断片が並ぶ巨大な棚になる。
庵野の創作は、その棚から文化の断片を取り出し、新たな配置を与える行為に近い。
だから彼の作品は、元ネタを知っている人と知らない人で見え方が大きく異なる。
しかし興味深いのは、それでも作品が成立してしまうことである。
それは作品の価値が引用そのものの中にあるのではなく、観客の内部に蓄積された記憶や感情を動かすところにあるからだ。
幼い頃にウルトラマンを見た人は、『シン・ウルトラマン』の中に自身の記憶を見るだろう。

戦後日本の怪獣映画を知る人は、『シン・ゴジラ』の中にその歴史を見るだろう。
一方で、それらを知らない世代はまったく異なる体験をする。
作品は意味を固定するのではなく、それぞれの観客の内部に存在する複数の時間を接続するのである。
だから庵野の作品は、過去を再利用しているようでいて、実際には新しい価値の生成装置として機能している。

価値は作品から与えられるのではない。
作品との出会いによって、観客の内部に蓄積された記憶や感情が再配置され、その都度新しい関係が生まれる。
庵野秀明とは、文化の歴史を語る作家ではない。
むしろ歴史を巨大なアーカイブとして扱い、その断片を現在の中で再接続する編集者である。
彼の作品を見ているとき、私たちは過去を懐かしんでいるのではない。 文化の記憶を通して、自分自身の時間を再編集しているのである。


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