トラヴィス・スコット(Travis Scott)の『ユートピア(Utopia)』を聴いていると、まず感じるのは「新しい音」というより、音楽の組み方そのものが変わったという感覚だった。

歪んだ音、硬いドラム、ロックやインダストリアルを思わせるギターやノイズ、急に変わるビート、美しいメロディの直後にざらついた質感が入り込んでくる。
これらは、トラヴィスがこれまでにつくってきた巨大な音響世界とは少し違う方向へ向かっているように聞こえる。
『アストロワールド』までのトラヴィスは、ばらばらの要素を一つの大きな世界へまとめていく印象が強かった。
1st『ロデオ(Rodeo)』や2nd『バーズ・イン・ザ・トラップ・シング・マックナイト(Birds in the Trap Sing McKnight)』にあったサイケデリックで暗い音響は、『アストロワールド』でさらに巨大化し、トラップ、R&B、ポップ、サイケデリック、映画的SEが一つの環境として統合されていた。


それは、遊園地の中にアトラクションを配置するように、音を「場所」として並べる行為だった。
『アストロワールド』は、トラヴィスの音楽が「一つの世界」として成立した瞬間だった。
だからこそ、『ユートピア』の変化が際立つ。
ここでは、音を一つの場所へ収めようとする力が弱まり、むしろ曲ごとに別の場所へ移動していく。
カニエ・ウエスト的な荒いサウンド、アルケミストの乾いた質感、ジェームズ・ブレイクの空間的な音、テイム・インパラのサイケデリックな揺れ、ロック的なギターの硬さ。
それらはトラヴィスの世界に完全に溶け込むわけではなく、時には少しはみ出して聞こえる。

しかし、その“はみ出し”こそが『ユートピア』の面白さであり、トラヴィスはここで、自分の世界へ他人を招き入れるのではなく、他人の世界へ自分が入り込んでいる。
そのため、トラヴィスのラップや歌い方もこれまでとは少し違って聞こえる。
メロディを前面に出す曲もあれば、声を音響の一部として扱う曲もあり、フロウがビートに合わせて変形する曲もある。
トラヴィスは「自分のスタイルを守る」よりも、そのビートの中で自分がどう存在できるかを探している。

これは、ヒップホップの古い制作原理に近い。
プロデューサーが変わればラップが変わり、サンプリングによって過去の音楽が現在の音になり、ビートチェンジによって一曲の中で別の時間へ移動する。
ヒップホップはもともと、純度を守る音楽ではなく、異なるものを接続し、その接続によって新しいノリを生む音楽だった。

トラヴィスはそれを、巨大なスタジオ制作の規模まで拡張している。
だから『ユートピア』の雑多さは、単なるジャンク感ではない。
異なる音を並べても、それを均質なサウンドにしてしまわず、少し違うまま置いてみる。
その差を残したまま、トラヴィスの声を通して一つの作品にする。

ここに、トラヴィスのプロデューサー的な面白さがある。
トラヴィス自身がすべての音をつくるわけではない。
しかし、誰と組むか、どの音を残すか、どこで切り替えるか、どの声をどこに置くか。
その選択によって、全体の環境を編集している。
作曲家というより、世界の編集者に近い瞬間がある。
その意味で、『ユートピア』というタイトルはとても示唆的だ。
ユートピアは、最初から完成された理想郷ではない。
むしろ、まだ存在しない場所だからこそ、さまざまなものを組み合わせながらつくらなければならない。

『アストロワールド』が「ここに来ればトラヴィスの世界がある」というアルバムだったとすれば、『ユートピア』は「次の世界は、何を組み合わせればつくれるのか」を試しているように聞こえる。
だから音が荒れ、ジャンルが揺れ、ビートが突然変わる。
それは世界を壊すためではなく、世界を固定しないためである。
強いスタイルを持つ作家は、普通なら、そのスタイルを守ることで「らしさ」を維持する。
しかしトラヴィスは、スタイルを維持するために、むしろスタイルそのものを変えていく。

『アストロワールド』で完成した世界をそのまま続編にするのではなく、一度完成した世界を解体し、そこから別の音を拾い直す。
『ユートピア』は、そのためのアルバムとして聴くことができる。
完成された世界の次には、また別の世界が必要になる。
そのためには、自分の過去さえも素材にしなければならない。
トラヴィス・スコットの強さは、一つの世界をつくれることだけではなく、その世界を次の世界のために組み替えられることにあるのではないだろうか。

ジュリアン・シュナーベル ─ 自分のスタイルから、別の世界へ
ジュリアン・シュナーベルを考えるとき、割れた陶器の巨大な絵画から始めると、どうしても「強烈なスタイルを持った画家」というイメージに行き着く。

しかし、彼のキャリアを追っていくと、むしろ印象に残るのはその身軽さである。
画家であるだけではない。
映画を撮り、脚本を書き、別の作家の人生を映画にする。
1996年にはジャン=ミシェル・バスキアを題材にした映画『バスキア(Basquiat)』を監督した。
しかも、その映画ではバスキアの作品世界を成立させるために、自身がバスキア風の絵画を制作している。

ここには少し奇妙な立場がある。
シュナーベルは、自分自身の作品をつくる作家でありながら、別の作家の作品を成立させる側にも回っている。
普通なら、「自分のスタイル」を守ることが重要になる。
しかしシュナーベルは、その場に必要な役割へと自分を変える。

バスキアを描くときにはバスキアの世界へ入り、映画をつくるときには映画の論理へ入る。
これは単なる器用さではない。
むしろ、自分の能力を一つの形式に閉じ込めないという態度だと思う。
画家であることを守るために映画を遠ざけるのではない。
映画をつくる必要があれば、映画監督になる。
別の作家の世界を描く必要があれば、その世界を成立させるために自分の手を使う。
だからシュナーベルにとって「作家らしさ」は、一定の見た目ではない。

どのような状況に入っても、その状況を作品へ変換できることそのものが、作家らしさになっている。
ここが、初期の陶器絵画から後年のさまざまな作品へ移動していく姿ともつながる。
重要なのは、何をつくったかだけではない。
そのとき何が必要だったか。
そして、それに合わせて自分の方法を変えられるか。
もちろん、何でもできることがそのまま創造性になるわけではない。
器用なだけなら、単なる技術になる。

シュナーベルの場合に面白いのは、異なる役割へ移動しても、その経験がまた自分の制作へ戻ってくることだ。
映画をつくる。
他人の世界を扱う。
写真を見る。
文学や音楽と関わる。
そうした経験が、再び絵画の中へ入ってくる。

つまり彼のキャリアは、一本道ではない。
外へ出て、別の場所を経験し、それを持って戻ってくる。
その往復によって、作家自身の領域が少しずつ広がっていく。
この姿勢は、作家の個性について考えるときにも興味深い。
作家の個性というと、他人には真似できない独自の様式を持つことがまず思い浮かぶ。
しかしシュナーベルを見ていると、個性は固定された見た目だけではない。
異なる環境やメディア、人間関係の中へ入り込み、そこで自分の能力を組み替えられることもまた、強い個性になりうる。

自分を変えられることも、作家性の一部なのだ。
この意味でシュナーベルは、トラヴィス・スコットとも重なる。
トラヴィスもまた、一つの「トラヴィスらしい音」を守るのではなく、プロデューサーやミュージシャン、ジャンルの異なる音楽と出会うたびに、自分の音楽を変えていく。
『アストロワールド』で世界を完成させたあと、『ユートピア』では、その完成形さえ次の制作の材料にした。
シュナーベルもトラヴィスも、強いスタイルを持っている。

しかし、その強さは同じものを繰り返せることではない。
必要なら、自分の役割さえ変えられる。
成熟とは、自分らしさを守ることだけではない。
どんな場所に入っても、自分を失わず、その場所に合わせて自分の方法を変えられることでもある。
シュナーベルの器用さは、単なる器用さではない。
それは、世界が変わるたびに、自分の創造性の使い方まで変えていく能力なのである。


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