ヒップホップにおける成熟とは、何かを新しく付け加え続けることではない。
むしろ長い時間を生きてきた者だけが、自分にとって本当に必要なものを見極め、余計なものを手放しながら、残ったものを豊かに使えるようになることである。
コモンとピート・ロックによる『オーディトリアムVol. 1(The Auditorium Vol. 1)』は、その成熟を静かに示した作品だ。

このアルバムには、過去の黄金期を再現しようとする焦りがない。
90年代への単純な回帰でもなければ、ベテランであることを証明するための作品でもない。
そのことは、アルバムが生まれた過程にも表れている。
二人の本格的な共同制作が始まったのは、2023年のヒップホップ50周年を記念するイベントの後だった。コモンがピート・ロックのスタジオを訪れると、ピートは次々と自分の音を聴かせた。

コモンはそこで、90年代らしく聴かせようと無理をする必要も、若く新しく聴こえるように背伸びする必要もないと感じたという。
ただ、自分たちが好きなことをやればいい。
そしてスタジオを出る前から、早く帰って書きたいと思った。
この感覚が、このアルバムの性格をよく表している。
二人は「昔のヒップホップを再現しよう」と考えたのではない。
自分たちが長い時間をかけて身につけたものを、そのまま使えばいいと感じたのだ。

実際、制作は驚くほど速く進んだ。
最初の5曲は数週間で形になった。二人は制作の初期段階ですでに「一体になった」と振り返っている。
しかし、その速さは雑さとは違う。
ピート・ロックは、サンプルをすぐにビートにすることもあれば、あえて時間を置くこともある。
今ではない。
この音には、まだ別のタイミングがある。
そう感じれば、無理に完成させない。
コモンは、そうしたピートの「時間」と「ケア」と「丁寧さ」が、二人の音楽に現れていると語っている。
ここがピート・ロックの面白いところだ。
彼は長年、膨大なレコードの中から一瞬の音を見つけ出してきた。

サンプリングとは、過去の音を切り取る技術であると同時に、どこを切り取り、いつ使うかを判断する技術でもある。
『オーディトリアムVol. 1』では、その判断が前面に出てこない。
豊かなサンプル、温かなドラム、ジャズやソウル、R&Bの響きが、まるで自然にそこにある。
ピート・ロックは、自分の技術を見せつけるのではなく、長い時間をかけて蓄えてきた音楽の引き出しを、一つずつ開いていく。
その音を受け取るコモンのラップにも、以前とは少し違う余裕がある。
コモンは、これまで文学やジャズ、社会への視線をヒップホップの中に持ち込んできた。
コンシャス・ラップという言葉が似合う、知的でストイックなラッパーでもあった。
2016年の『ブラック・アメリカ・アゲイン(Black America Again)』では、その意識はタイトルからして明確だった。黒人としてアメリカを生きること、歴史や差別について語ること。その正当性を言葉によって正面から提示する作品だった。

その音楽的な豊かさは今聴いても魅力的だ。
しかし『オーディトリアムVol. 1』では、社会への視線も歴史への意識も残しながら、それを急いで証明しようとはしない。
コモンのラップには、切迫感よりも、経験を重ねた人が静かに話しかけるようなやさしさがある。
「こうあるべきだ」と説得するよりも、自分が見てきたものを手渡してくる。
そして、その言葉をピート・ロックの音が包み込む。
ここには、「ドカーン」と一気に聴き手を持っていくような欲望があまりない。
強さを音圧で証明する必要もない。
新しさを派手さで証明する必要もない。
むしろ、二人が長い時間をかけて蓄えてきたものを、そのまま豊かさとして差し出している。

だから、このアルバムはリッチに聴こえる。
音が多いからではない。
持っているものが多いから、余裕を持って使える。
そして、その制作の一部が行われたエレクトリック・レディ・スタジオ(Electric Lady Studios)という場所にも、興味深い時間の重なりがある。
このスタジオは、ジミ・ヘンドリックスが自分の理想とする音楽制作の場所としてニューヨークにつくったものだ。

ヘンドリックスがそこで過ごした時間は短かったが、その後も数多くのミュージシャンがこの場所で音楽をつくってきた。
ロック、ソウル、ファンク、ジャズ、そしてヒップホップ。
世代の異なる音楽が、同じ場所に積み重なっている。
そこにコモンとピート・ロックが入り、また新しい音楽をつくる。
これは象徴的なことだと思う。
過去の音楽を保存するのではない。
過去が積み重なった場所で、そこから別の現在をつくる。
ピート・ロックがレコードの中から過去の音を見つけ、コモンがそれを現在の言葉に変える。
その行為自体が、このアルバムの考え方になっている。
歴史を知っているから、歴史をそのまま再現するのではない。
歴史を身体の中に持っているから、それを自由に使える。

だから、ここにあるのは懐古ではなく成熟である。
過去を守ることではなく、過去を自由に扱えるようになること。
この感覚を絵画に置き換えるなら、リチャード・ディーベンコーンの「オーシャン・パーク」シリーズが近い。
ディーベンコーンもまた、抽象と具象を行き来しながら、長い制作の中で身につけたものを晩年の画面に持ち込んだ。
その結果生まれたのは、何かを証明するような抽象ではない。
大きな色面と線、形と余白がゆるやかに関係しながら、画面を開いていく。
経験は画面を埋め尽くすのではなく、むしろ余白を生み出している。
コモンとピート・ロックにも、それと似た自由がある。
経験が増えたから表現が複雑になったのではない。
経験を重ねたからこそ、必要なものだけを残し、あとは開いておける。

前章のタリブ・クエリが、他者との対話によって自分自身を広げていったとすれば、コモンとピート・ロックは、それぞれが長い時間をかけて培ってきたものを持ち寄り、一つの成熟した空間をつくっている。
成熟とは、過去を捨てて新しくなることではない。
過去を自分の中で変換し、自由に扱えるようになることだ。
『オーディトリアムVol. 1』は、ヒップホップが時間を重ねた先で獲得した、穏やかで豊かな自由の記録なのである。
リチャード・ディーベンコーン ─ 画面を自由にする
リチャード・ディーベンコーンの「オーシャン・パーク」を見ると、最初はとても静かな抽象画に見える。
大きな色面。
斜めに走る線。
建築のような形。
そして、そのあいだに広がる余白。

しかし、この絵は最初から抽象画として構想されたわけではない。
ディーベンコーンが制作したロサンゼルスのオーシャン・パークのスタジオには、海や空、建物、窓から見える光など、日常の風景があった。
彼はそれらをそのまま描いたわけではない。
風景を見て、そこから形を取り出す。
形を画面に置く。
線を引く。
色を重ねる。
そして、気に入らなければ消す。
別の形をその上から置く。

そうやって、目の前の世界を少しずつ画面の中で組み替えていった。
だから「オーシャン・パーク」の画面には、抽象的な形でありながら、どこか窓や壁、屋根、海、空を思わせる感覚が残っている。
しかし、それらはもう風景そのものではない。
ディーベンコーンは、見たものを再現するのではなく、見たものを絵画の問題へ変えている。
ここで重要なのは、彼が画面を「完成させる」のではなく、画面とのやり取りを続けていたことだ。
一度置いた色が、次の色によって押し戻される。
一本の線が空間を分ける。
その線が強すぎれば、別の色や形によって弱められる。

残したいものと消したいものが画面の中でせめぎ合い、その痕跡が最後の絵にも残っている。
だから「オーシャン・パーク」は、整然として見えながら、完全には整理されていない。
形は幾何学的だが、定規で引いたようには見えない。
色面は大きいが、平坦ではない。
余白は広いが、何もないわけではない。
その空間には、描かれなかったものや、消されたものまで含まれている。

ディーベンコーンは、自由になるために構造を捨てたのではない。
むしろ、構造を何度もつくり直した。
具象を描き、抽象へ進み、再び人物や風景へ戻り、そして最後にまた抽象へ向かう。
その経験が、画面の中で一つになっていく。
だから晩年の抽象は、初期の抽象とは違う。
そこには、世界を見てきた時間と、絵画を壊してきた時間の両方がある。
若い抽象画には、ときに「新しいものをつくる」という勢いがある。

ディーベンコーンの場合は少し違う。
すでに知っているものを、もう一度疑う。
一度決めた構図を、もう一度動かす。
描いたものを消して、その痕跡を次の形の中に残す。
そうやって画面を少しずつ開いていく。
その結果、経験は重さではなく余白になる。
たくさん描いてきたからこそ、描かない場所を残せる。
たくさん知っているからこそ、すべてを説明する必要がない。
「オーシャン・パーク」が穏やかでありながら弱くないのは、そのためだ。

自由でありながら、無秩序でもない。
画面には秩序がある。
しかし、その秩序は閉じていない。
色、線、形、余白が互いに作用しながら、見る側の中で空間がゆっくりと立ち上がってくる。
ディーベンコーンの自由とは、何にも縛られないことではない。
長い時間をかけて描き、壊し、戻り、また描いたからこそ、最後には画面を開いたままにしておけることだ。
それは、経験によって得られた自由である。
そしてその自由は、何かを証明するためのものではない。
画面を、自分だけの答えで閉じないための自由なのだ。



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