バスタ・ライムス(Busta Rhymes)には、代表作として語られる作品がいくつもある。
『E.L.E. ファイナル・ワールド・フロント(E.L.E. (Extinction Level Event): The Final World Front)』は、終末的なSF世界と圧倒的なラップを融合させ、彼の想像力が最も大きく展開された作品だった。

また『ビッグ・バン(The Big Bang)』では、長いキャリアを経たバスタの存在感と、時代に対応する柔軟性が結びつき、ベテランMCとしての強さを示した。

これらの作品が高く評価される理由は明確である。
そこには、バスタ・ライムスという一人のアーティストが作り上げた強烈な世界観がある。
しかし、2023年の『ブロックバスタ(BLOCKBUSTA)』は、少し違う場所に立っている。
この作品の面白さは、一人のラッパーが世界を構築することではない。

むしろ、バスタ・ライムスという存在そのものが、さまざまな時代やスタイルを持った人間を自然に集める「場」になっていることにある。
『ブロックバスタ』で特に印象的なのは、ゲストとの距離感である。
ダ・ベイビー(DaBaby)とTペイン(T-Pain)を迎えた「ビッグ・エブリシング(BIG EVERYTHING)」では、若い世代のダ・ベイビーが自分のスタイルを保ったまま、のびのびと参加している。
それはこの曲だけではない。

クァ―ヴォ、BIA、ヤング・サグ、クリス・ブラウン、コダック・ブラック、コイ・リレイ、バーナ・ボーイ(Quavo、BIA、Young Thug、Chris Brown、Kodak Black、Coi Leray、Burna Boy)など、世代も地域もスタイルも異なるアーティストがアルバムに参加している。
普通なら、これだけ多くの個性が集まれば、作品は散漫になりやすい。
ところが『ブロックバスタ』では、むしろ逆のことが起こる。
ゲストはそれぞれ自分の音楽を持ち込んでいる。それなのに、最終的には「バスタ・ライムスの作品だった」という感覚が残る。

ここには、コンセプトや統一されたサウンドによる完成度とは別の統一感がある。
それぞれが自由に動いているのに、全体が一つの重力に引き寄せられている。
その重力こそが、バスタという人物なのだ。
この感覚を考えると、ヒップホップにおける客演文化の変化も見えてくる。
もちろん一概には言えないが、かつて客演には「力の証明」や「文化の宣言」という意味が強くあった。
例えばバンB(Bun B)のソロ作『トゥリル(Trill)』に収録された「ゲット・スロウ(Get Throwed)」には、ジェイZ、ピンプC、ヤング・ジィジィ、Z・ロー(JAY-Z、Pimp C、Young Jeezy、Z-Ro)が参加している。

南部ヒップホップの歴史を背負ったバンBが、ニューヨークの頂点にいたジェイ-Zを迎える。
そこには単なる豪華共演以上の重みがある。
地域を代表する者同士が同じ曲に立つことで、それぞれの文化的な力を確認し合う。

「誰を呼んだか」が、そのまま「自分がどこにいるのか」を示す。
客演は、格の交換であり、文化の力を示す場でもあった。
しかし、バスタの現在の立ち位置は少し違って見える。
彼は、もう自分の格を証明するために誰かを呼ぶ必要がない。

むしろ、自分が築いてきた場所に、次の世代を立たせている。
「この場所に、お前も立て。」
そんな感覚がある。
若手の才能を自分の輝きのために利用するのではなく、自分が長い時間をかけて築いてきた舞台を、次の世代にも開いていく。
客演が「権威の交換」から「場の継承」へ変わっているのである。
この構造は、ジョージ・クリントン率いるP-ファンク(P-Funk)にも通じる。

P-ファンクでは、中心人物がすべてを支配するのではなく、多くの個性的なミュージシャンが自由に動きながら、一つの巨大な文化を形成した。
誰かが目立ってもいい。
誰かが新しいものを持ち込んでもいい。
それでも最後には、それがP-ファンクになる。
バスタ・ライムスにも、似たところがある。
彼の周囲では、若手もベテランも、それぞれのスタイルを保ったまま存在できる。

バスタ自身が細かく方向を決め、全員を自分の色に染めるわけではない。
むしろ「よきに計らえ」とでも言うように、周囲を自由にしている。
それなのに、場は崩れない。
むしろ自由にさせることで、バスタという中心がかえってはっきりする。
彼は一人のラッパーというより、一つのジャンルのような存在になっている。
もちろん、バスタは自分をそのような存在として設計したわけではないだろう。
リーダーズ・オブ・ザ・ニュー・スクール(Leaders of the New School)から始まり、ア・トライヴ・コールド・クエスト(A Tribe Called Quest)の「シナリオ(Scenario)」で強烈な個性を示し、30年以上にわたって第一線で活動してきた。

その間、時代ごとのビート、世代ごとのラッパー、変化するヒップホップの形式と関わり続けた。
その積み重ねの結果として、彼はいつの間にか「一人の作家」を超え、文化が集まる場所になった。
だから『ブロックバスタ』は、必ずしも彼の最高傑作という意味ではない。
『E.L.E.』のような巨大な世界観や、『ビッグ・バン』のような完成されたスター性とは違う。
この作品が記録しているのは、作品の完成ではなく、存在の成熟である。
若い頃のバスタは、自分自身がステージの中心だった。
今のバスタは、自分が立ってきたステージそのものを広げている。

そこに次の世代を上げる。
そして、その若いラッパーが自由に振る舞っても、その場所はバスタのものとして成立する。
それは、ヒップホップが本来持っていた集団性、サイファーの精神、文化が人から人へ受け継がれていく力を、現在の形で示している。
『ブロックバスタ』とは、一人のラッパーが作った世界ではない。
長い時間を生きたヒップホップという文化が、バスタ・ライムスという一人の人間を通して現れた作品なのである。
文化を作った人が、いつしか文化そのものになっていく。 その変化を聴くことができるのが、『ブロックバスタ』なのだ。

ロバート・ラウシェンバーグ ─ 世界が入り込む絵画
ロバート・ラウシェンバーグの作品を見ると、最初に感じるのは戸惑いかもしれない。
新聞の切り抜き、写真、広告、布、タイヤ、印刷物、日用品。
絵画の中に、本来なら芸術とは別の場所にあるはずの現実が次々と入り込んでいる。
一見すると、そこに明確な「作者の手」が見えにくい。

何を描きたいのか。
何を表現しているのか。
従来の絵画のように、一つの世界観や強いイメージが画面を支配しているわけではない。
しかし、その開かれた状態こそが、ラウシェンバーグの革新だった。
彼は、自分の内面を表現するために世界を変形するのではなく、世界そのものが画面に入り込む場所を作った。
ラウシェンバーグは、絵画と生活の間にある境界を揺さぶった。

抽象表現主義の時代、絵画はしばしば画家の身体や精神を直接示すものとして考えられていた。
ポロックの激しい身振り。
デ・クーニングの身体的な筆触。
ロスコの巨大な色面。
そこでは画面は、画家の内側が現れる場所だった。
しかしラウシェンバーグは、別の方向へ進んだ。
彼は画面を、自分の内面を映す鏡ではなく、外の世界を受け止める場に変えた。
新聞の写真も、街のイメージも、偶然出会った物も、作品の一部になる。
重要なのは、それらを自分の様式に変えて支配することではない。
異質なものが異質なまま存在できる空間を作ることだった。
代表作《Bed》では、実際のベッドや枕、キルトが作品の表面に使われている。

そこには日常と芸術、私生活と公共空間、身体とイメージが混ざり合っている。
しかし、それは単なる「日用品を芸術にした」という話ではない。
ラウシェンバーグが行ったのは、価値の低いものを高い芸術へ変換することではなく、世界にすでに存在しているものを、もう一度見るための場所を作ることだった。
彼の作品では、現実そのものが素材になる。
そのため、ラウシェンバーグの作家性は、強い個性を押し出すことではなく、受け入れる能力に現れる。
何を取り込んでも、最後にはラウシェンバーグになる。

それは、すべてを自分の色に染める強さではない。
異なるものが、それぞれの姿を保ったまま共存できる場を作る強さである。
彼の作品は、一人の画家が完成させた閉じた世界ではない。
むしろ、時代のイメージや現実の断片が流れ込み続ける、開かれた場所なのである。
この姿勢は、後の文化にも大きな影響を与えた。

ヒップホップにおけるサンプリングも、その一つとして考えられる。
既存の音、過去の文化、異なる時代の断片を取り込みながら、それらを単なる引用ではなく、新しい現在として成立させる。
そこでは、創造とは何もないところから新しいものを生むことではない。
すでに存在する世界との関係を組み替えることである。
ラウシェンバーグの仕事は、その可能性を絵画のなかで大きく開いた。
だから彼の作品には、不思議な匿名性がある。
作者が消えているように見える。

しかし実際には、作者が消えたのではない。
むしろ、世界を受け入れるという行為そのものが、ラウシェンバーグという強烈な作家性になっている。
彼は、自分の世界を作った画家ではない。
世界が入り込む場所を作った画家である。
そして、その開かれた場所こそが、彼自身だった。

カツカレーカルチャリズム画家列伝42 ~ロバート・ラウシェンバーグ 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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