混ぜすぎた美術史 97 ~ジョアン・ミッチェル

アート

ジョアン・ミッチェル(1925–1992、アメリカ)
身体は風景を記憶する ─ 生きた時間が秩序へと生成する絵画

ジョアン・ミッチェルの絵画を初めて見ると、多くの人は、そのあまりにも生々しい画面に驚く。

そこには、あらかじめ設計された構成のようなものがほとんど感じられない。

色彩は衝突し、
筆跡は走り、
画面は今まさに生まれているように見える。

しかし、その即興性こそが、彼女の絵画の本質だった。

出典:Artpedia/ジョアン・ミッチェル「てんとうむし」

ミッチェルは抽象表現主義の第二世代に位置付けられる画家である。

しかし、彼女が受け継いだのは、ポロックの身振りでも、ロスコの色面でもない。

彼女が描こうとしたのは、身体のなかに蓄積された時間が、一つの画面として立ち現れる瞬間だった。

抽象画には、ときに作家の「手癖」が現れる。

繰り返される筆致。
決まった構成。
描き慣れたリズム。

しかしミッチェルの画面には、そのような反復がほとんど見当たらない。

一枚ごとに異なるリズムが生まれ、一つとして同じ呼吸を持つ作品はない。

出典:Artpedia/ジョアン・ミッチェル「ヘムロック」

それは、形式を更新しようとしているからではない。

彼女は、長い時間をかけて身体に沈殿した光や風、空気や季節の記憶を、制作という現在のなかであらためて生成しようとしているのである。

描かれているのは木でも花でも空でもない。

それらを見た身体の経験である。

風が頬をかすめた感覚。
光が揺れる印象。
枝が空間を横切るリズム。

出典:Artpedia/ジョアン・ミッチェル「都市風景」

そうした無数の経験は、一つひとつ思い出として再現されるのではない。

身体のなかで混ざり合い、制作への没入を通して、一つの画面全体のリズムへと姿を変えていく。

だから彼女の作品には、部分を積み上げた構成ではなく、一つの生命体のようなまとまりが生まれる。

出典:Artpedia/ジョアン・ミッチェル「ストロー」

一筆一筆は自由でありながら、画面全体には不思議な秩序がある。

それは幾何学的な構図ではない。

身体が感応した世界のゲシュタルトである。

ミッチェルは、その全体へ応答しながら、一筆ごとに画面を育てていく。

出典:Artpedia/ジョアン・ミッチェル「数日」

抽象表現主義の第一世代が追い求めたのは、「絵画とは何か」という問いだった。

平面とは何か。
色彩とは何か。
支持体とは何か。

しかしミッチェルの世代になると、その問いは少しずつ変化していく。

形式そのものを探究することよりも、その形式はいかに生きた経験から生成されるのか。

出典:Artpedia/ジョアン・ミッチェル「かすれた空気」

彼女の関心は、理念ではなく、身体が世界へ応答する過程そのものにあった。

だから彼女の作品には、英雄的な身振りも、純粋性を証明しようとする硬さもない。

画面は何かを主張する場ではなく、生きた時間が自然に呼吸し始める場となっている。

出典:Artpedia/ジョアン・ミッチェル「ラ・グランデ・ヴァレ XIV」

この変化は、ヘレン・フランケンサーラーが色彩を空気へと解放した流れとも響き合っている。

フランケンサーラーが支持体と色彩を一体化させることで画面に呼吸を与えたのだとすれば、ミッチェルはその呼吸のなかへ、身体に蓄積された時間そのものを流し込んだ。

その画面は、何かを意味する以前に、まず身体へ届く。

出典:Artpedia/ジョアン・ミッチェル「ラ・グランデ・ヴァレ IX」

観る者は構図を読むのではない。

色彩の速度を感じ、
筆跡の呼吸をたどり、
画面全体に流れる一つの生命のリズムを、自らの身体で受け取るのである。

もしポロックが、身体の勢いそのものをキャンバスへ刻みつけた画家だとしたら、ジョアン・ミッチェルは、身体に蓄積された時間が一つの秩序として生成される瞬間を描いた画家だったのである。

出典:Artpedia/ジョアン・ミッチェル「前に、また」

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