受容の途中で創造になる日本美術 ~ 使ってしまう文化
具体美術協会の作品や制作風景を初めて見ると、多くの人は思わず驚く。
白髪一雄は天井から吊るしたロープにつかまり、巨大な画面の上を両足で滑るように描いている。

田中敦子は無数の電球を身体にまとい、元永定正は水や煙までも作品へ取り込んだ。村上三郎は紙を勢いよく突き破り、その行為そのものを作品として提示した。

その姿を見た瞬間、「えーー!!」と思わず声が出る。
そして続けて、「こんなのも作品なの?」という感覚がやってくる。
ところが、その驚きはそこで終わらない。
実際の作品を前にすると、意外なほど素朴で、どこかチープにさえ感じられることがある。豪華な素材でもなく、圧倒的な技巧でもない。そのため、一度は「なんだ、こんなものか」と肩の力が抜ける。

しかし、その脱力のあとに、別の問いが静かに立ち上がる。
「いや、待てよ。こんなことを作品として成立させてしまったこと自体が、とてつもなく過激なのではないか。」
驚いていたのは作品ではなかった。
作品によって、美術の正統性そのものが軽々と飛び越えられてしまう、その飛躍に驚いていたのである。
この「はじけた」感覚は、どこから生まれたのだろうか。

具体美術協会は、しばしばヨーロッパのアンフォルメルやアメリカの抽象表現主義の影響を受けた運動として説明される。戦後、日本には海外の前衛美術が急速に紹介され、絵具そのものや身体性、制作行為そのものへの関心が共有されていった。

しかし、具体の魅力は、それらを忠実に継承したことだけでは説明できない。
今井俊満がフランスと日本を往還し、アンフォルメルを紹介していた頃、その受容をめぐっては興味深い逸話が語られている。
ヨーロッパのアンフォルメルでは、激しい身振りも長い絵画理論の延長として理解されていた。しかし日本では、その身振りはさらに大胆に、さらに身体的な表現へと展開されていく。

そうした日本の制作に対しては、「まるでサーカスを見ているようだ」という趣旨の批判が向けられたという。そこには、日本の作家たちが理論を十分に理解する前に、身振りだけを増幅させているという見方があったのだろう。
しかし、この出来事は別の読み方もできる。

日本では理論を完全に消化してから制作が始まるのではなく、身体がその思想を受け取った瞬間、制作そのものが先へ走り始めてしまうのである。
だから具体は、西洋前衛になりきれなかった運動ではない。
なりきる前に、自分たちの創造が始まってしまった運動だったのである。
あるいは、理解を終えてから創造したのではなく、創造することによって理解そのものを更新していった運動だったと言ってもよい。

日本文化には外からもたらされた思想や様式を、そのまま保存するのではなく、生活や身体の中で使いながら変化させていく傾向がある。
それは単なる模倣でも誤読でもない。
受容の途中で、自分たちの文化として作り替えてしまう創造である。
この構造は、日本美術の歴史を振り返っても繰り返し現れている。
葛飾北斎は西洋の遠近法を厳密に再現するのではなく、自らの画面構成へ組み込み、新しい空間表現を生み出した。

高橋由一は油彩という西洋の技法を用いながら、《鮭》のような作品に独特の生々しい物質感を与えた。

萬鉄五郎はフォーヴィスムや表現主義を参照しながら、それらを日本的な身体感覚の中で増幅していった。

共通しているのは、理論を忠実に再現することよりも、使うことによって別のものへ変えてしまう姿勢である。
ここでいう「はじける」とは、単に派手になることではない。
外から受け取った思想や様式が、その論理を忠実になぞるのではなく、日本の身体感覚や制作の現場を通ることで、予想以上の強度をもって別の形式へと変化してしまうことである。

だから具体の作品には、理論だけでは説明できない軽やかさがある。
それは難しい前衛というより、「まずやってみよう」という身体の勢いが、そのまま作品になっているようにも見える。

この感覚は、「カツカレー」という比喩にもよく表れている。
カツカレーは、スパイス文化としてのカレーと、日本の揚げ物文化としてのトンカツを組み合わせた料理である。しかし、それは両者を理論的に統合した結果ではない。
まず並べてみる。
食べてみる。
そして、おいしかったから文化になった。
異なる要素は完全には溶け合わない。それでも互いに影響し合い、新しい味を生み出していく。

日本文化には、このように「使いながら編集する」という創造の回路がある。
具体美術協会もまた、西洋前衛を完全に理解してから始まった運動ではない。
受け取った思想を、自らの身体で使い始めた瞬間、そこから世界のどこにもなかった表現が生まれていった。
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だから白髪一雄がロープにつかまりながら足で描く姿や、村上三郎が紙を突き破る瞬間を見たとき、私たちは思わず「えーー!!」と驚くのである。
その驚きは、単なる奇抜さへの反応ではない。
表現には守るべき正統性があるはずだという前提が、身体の勢いによって軽々と飛び越えられてしまう。その瞬間に立ち会っている驚きなのである。


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