私たちは作品について多くを語ることができる。
技術について。
構図について。
歴史について。
社会について。
制度について。
もちろん、それらは重要である。
作品は常に何らかの文脈のなかで生まれ、見られている。

しかし、それらを語り終えたあとにも、なぜか何かが残ることがある。
説明はできる。
理解もできる。
それでもなお、うまく言葉にならない感覚が残る。
逆に、技術も意図も理解できるのに、なぜか心が動かないこともある。
私たちは作品を理解しているだけなのだろうか。
それとも、理解とは別の何かに触れているのだろうか。

フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは、この問題を独特な仕方で考えた。
彼によれば、世界には言葉や概念によって整理できるものだけではなく、整理しきれないものも存在する。
私たちは通常、見たものを理解し、分類し、意味づけながら生きている。
しかし、ときにそうした枠組みを超える経験に出会うことがある。
何かを感じている。
しかし、それが何なのかうまく説明できない。

そのような状態にリオタールは注目した。
彼はこれを「崇高」という概念を通して論じた。
崇高とは、美しいものを意味するわけではない。
理解できないほど大きなもの。
把握できないほど複雑なもの。
あるいは、感じられるのに十分には表現できないもの。
そうした経験のことである。

近代以降、美術はしばしば何かを表現するものだと考えられてきた。
風景を描く。
人物を描く。
感情を描く。
思想を描く。
だがリオタールは、芸術には別の役割もあると考えた。
それは、見えるものを描くことだけではない。
むしろ、見えないものが存在することを示すことである。
何かを説明するのではない。
説明しきれないものの輪郭を感じさせるのである。
しかしリオタールにとって重要なのは、その説明できなさを解消することではなかった。

私たちは理解できないものに出会うと、それを分類し、整理し、意味づけようとする。
そして最終的には何らかの答えへたどり着こうとする。
だが彼は、芸術には別の働きがあると考えた。
それは答えを与えることではない。
むしろ、答えが与えられない状態そのものを経験させることである。
何かがある。
しかし十分には言葉にならない。
理解できそうで、完全には理解できない。
その緊張を消さずに保つこと。
リオタールが「崇高」のなかに見ていたのは、そのような解決されない経験だった。

この考え方は、現代絵画を見るときにも興味深い。
たとえば抽象絵画。
そこでは何が描かれているのか説明できないことがある。
しかし説明できないから価値がないわけではない。
むしろ、その説明できなさこそが経験の中心になっていることがある。
具象絵画でも同じである。
人物は描かれている。
風景も描かれている。
物語も読み取れる。
しかし、その魅力は主題だけでは説明できない。

技術だけでもない。
歴史的文脈だけでもない。
何かが少しだけ余る。
何かが完全には回収されない。
その余りが画面に残る。
現代社会は説明を求める。
制度は位置づけを求める。
市場は価値を求める。
批評は意味を求める。
それらは必要な営みである。
しかし、絵画はときにそこから少しだけはみ出す。

意味になりきらないもの。
言葉になりきらないもの。
説明されてもなお残るもの。
それは、私たちの日常から切り離された特別な経験ではない。
たとえば、なぜか惹かれてしまう風景。
理由は分からないのに繰り返し聴いてしまう音楽。
あるいは、カツカレーのような少し過剰な食べ物に感じる不思議な満足感。
カレーだけでも成立している。
カツだけでも成立している。
それでも人は二つを重ねてしまう。

そこには合理性だけでは説明できない豊かさがある。
少しの無駄。
少しの逸脱。
少しの過剰。
しかし、その余分な部分こそが魅力になっている。

ここで重要なのは、その余りを欠陥として扱わないことである。
説明できないなら説明できるようにする。
矛盾があるなら統合する。
異物があるなら整理する。
私たちはしばしばそう考える。
しかしリオタールは、そうした回収の運動からこぼれ落ちるものに価値を見ていた。
余るものを消すのではなく、その余りと共にあること。
おそらく芸術とは、そのための形式でもある。
おそらく文化とは、こうした「余るもの」と共にある。

機能だけでは測れないもの。
意味だけでは説明できないもの。
整理しようとしても少しだけこぼれ落ちるもの。
絵画の前で起きることも、どこかそれに似ている。
私たちは意味を理解するだけではなく、説明しきれない余りに触れているのかもしれない。
そして、その余りは欠陥ではない。
未完成でもない。
むしろ、作品が最後まで手放さなかった自由である。

それは、前章で述べた「交換されない身体」とも、また「平面に並ぶ世界」の非統一な共存ともどこかで響き合っている。
異なるものが完全には統合されず、それでもひとつの経験として成立すること。
そこには常に少しの余白が残る。
リオタールが見ていたのも、おそらくその余白だった。

見る人は、その余白を埋めることはできない。
ただ、その輪郭に触れることはできる。
絵画とは、見えないものを見せる技術ではない。
見えないものがあることを忘れないための形式なのかもしれない。
そして、その「余るもの」は、単なる曖昧さではない。
世界をひとつの意味へ閉じないための余剰であり、異なる感覚や価値が共存するための余白でもある。
それは、異なる要素が完全には溶け合わず、それでもひとつの経験として成立してしまうカツカレーカルチャリズムの感覚にもどこか似ている。

純化ではなく共存。
統合ではなく並置。
解決ではなく保留。
リオタールの崇高とは、おそらくそのような場所に現れる。
そして絵画もまた、その場所を保存するための形式なのかもしれない。
説明されたあとにも残るもの。
理解されたあとにも余るもの。 私たちはその輪郭に触れるために、何度も絵の前へ戻ってくるのである。

PSコラム「説明し尽くせないもの」を考えた哲学者
ジャン=フランソワ・リオタール(1924–1998)
ジャン=フランソワ・リオタールは、ポストモダンを代表する思想家のひとりである。
一般には ポストモダンの条件 で知られているが、美術との関係で重要なのは「崇高(サブライム)」についての考察である。

リオタールは、近代社会が世界を説明し整理しようとする一方で、人間の経験には言葉や概念だけでは捉えきれない領域が残ると考えた。
それは単なる無知や混乱ではない。
むしろ、感じることはできるのに十分には表現できないもの、理解できると思った瞬間に少し逃げてしまうものの領域である。
彼は芸術の重要な役割を、そのような「表象できないもの」の存在を示すことに見ていた。
何かを分かりやすく説明することではなく、説明し尽くせないものの輪郭を感じさせること。
そのためリオタールは、抽象絵画や現代美術に強い関心を示した。
とりわけ彼が高く評価したのが、アメリカの画家 バーネット・ニューマン である。

ニューマンの巨大な色面絵画には、明確な物語も象徴もほとんど存在しない。
しかし作品の前に立つと、意味を理解するより先に「何かがそこに現れている」という感覚が生まれる。
リオタールはそこに崇高を見た。
それは壮大な風景や宗教的な超越ではない。
むしろ、説明に先立って現れる「いま、ここ」の出来事である。

理解しようとすると逃げてしまう。
しかし確かに経験される。
その緊張を消さずに保つこと。
リオタールにとって芸術とは、そのような経験を可能にする場だった。
彼にとって芸術は、見えないものを見せる技術ではない。
むしろ、見えないものがあることを忘れないための形式だったのである。

リオタールの思想は、「意味」や「制度」だけでは捉えきれない経験の余剰に注目する。
その点で、本ブログで繰り返し扱われる「余るもの」や「カツカレーカルチャリズム」の感覚とも、どこかで響き合っている。
異なる要素をひとつの答えへ統合するのではなく、説明し尽くされない部分を残したまま共存させること。
リオタールが考えた崇高とは、そのような「解決されない豊かさ」の哲学だったとも言えるだろう。


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