瑛九(1911–1960、日本)
飛び続けるイメージ ― 理念から解放された世界
古賀春江が世界を組み替え、三岸好太郎が世界の変身を夢見たとすれば、瑛九は世界そのものを手放してしまった画家だった。
瑛九はしばしば日本におけるシュルレアリスムの流れの中で語られる。
たしかに初期作品には夢や幻想を思わせる要素があり、独自に考案したフォト・デッサンにも現実を異化する感覚がある。しかし彼の作品を見ていると、次第にシュルレアリスムという枠組みそのものが意味を失っていくように感じられる。

ブルトンたちが求めたのは無意識だった。
夢。
偶然。
欲望。
精神の深層。
イメージはそれらへ到達するための手段だった。
しかし日本でシュルレアリスムが受容される過程では、しばしばその理念よりもイメージの魅力や形式の自由さの方が強く受け取られていった。

古賀は近代の断片を組み合わせた。
三岸は蝶や線に変身の気配を託した。
そして瑛九に至ると、もはや無意識を説明する必要さえなくなる。
そこに残るのは、イメージが生まれることそのものへの興味である。
彼が生み出したフォト・デッサンは、写真でありながら写真ではない。
光と影によって生まれた像は、現実を記録しているようでいて、すでに現実から離れている。
人物は記憶の断片のように現れ、
物体は夢の残像のように漂う。
それらは何かを意味しているというより、像そのものが独立した生命を持ち始めた状態に近い。

さらに晩年の抽象作品では、その傾向は極端なかたちで現れる。
画面には無数の点が広がる。
それは宇宙にも見え、
細胞にも見え、
森にも見え、
光にも見える。
しかし決して一つの意味へ収束しない。

見る者は何かを読み取ろうとするが、画面は容易に答えを与えない。
ただ無数の像が発生し、結びつき、分裂し、再び広がっていく。
そこではもはや夢も神話も必要ない。
無意識ですらない。

イメージそのものが増殖しているのである。
その飛び方は、どこか日本的でもある。
理念を厳密に継承するのではなく、興味や感覚として受け取り、それを新たな形式へ変えてしまうこと。
シュルレアリスムは日本において、精神分析や革命の思想としてよりも、不思議な像を生み出す自由として受け取られた。

瑛九はその極端な到達点だったのかもしれない。
彼の作品には参照すべき物語がない。
象徴もない。
正しい読み方もない。
ただイメージだけが、どこまでも飛び続けている。

その姿は後の日本文化にもどこか重なって見える。
マンガ。
アニメ。
キャラクター。
怪獣。
それらもまた、必ずしも理念から生まれたわけではない。

面白い形。
魅力的な存在。
忘れられないイメージ。
そうした興味や感覚が積み重なり、新しい世界が作られていく。
瑛九の作品には、その原初的な自由を見ることができる。
彼が描いたのは夢ではない。
彼は皿に「写真」と「絵画」、「偶然」と「想像力」を紙飛行機のように盛ったのだ。


コメント