萬鉄五郎(1885–1927、日本)
ねじ込まれた前衛、日本近代のノイズ
萬鉄五郎は、日本におけるフォーヴィスム受容の代表的画家として語られることが多い。
激しい色彩、歪んだ人体、荒々しい筆致。
たしかにその作品には、西洋前衛の熱が流れ込んでいる。

しかし萬の重要性は、単に「日本にもフォーヴがあった」という点にあるのではない。
むしろ彼の特異さは、西洋近代を日本が滑らかには消化できなかった、その摩擦や誤作動そのものを体現しているところにある。

萬の作品には、どこか整理され切らない熱がある。
色彩も形態も、完成された様式として安定していない。
それは技術不足というより、近代そのものがまだ身体へ定着していない不安定さに近い。
明治以後の日本は、西洋の制度や思想、芸術を急速に導入していった。
しかしその速度は、日本の生活感覚や身体感覚とのあいだに大きな摩擦を生み出す。

萬鉄五郎の絵画には、その「うまく接続できなさ」が剥き出しのまま現れている。
彼の絵は、社会へ向けて整えられた完成品というより、内部の衝動がそのまま噴き出しているように見える。
そこには、後の日本文化に繰り返し現れる、「社会と完全には接続できないまま、自分だけの熱量を抱えて制作を続ける」という感覚の早い原型がある。

興味深いのは、萬が戦後になって再評価されたことである。
生前の彼は、必ずしも大きな成功を得たわけではなかった。
しかし戦後日本美術史は、「日本にも本格的前衛が存在した」という系譜を必要とした。
そのとき萬は、日本近代の内部で早すぎる実験を行った存在として、美術史へ位置づけられていく。

つまり萬は、「自然に巨匠となった画家」というより、後の時代が必要とした前衛だったのである。
だが、その“ねじ込まれた感じ”こそが、逆に萬の現代性でもある。
マンガ、サブカルチャー、インディー文化に至るまで、日本では異物を完全に純化せず、未整理な熱量や混線状態を抱え込む表現が繰り返し現れる。
萬鉄五郎は、その原型のひとつとして見ることができる。

彼は完成された日本フォーヴではない。
むしろ、西洋近代が日本へ流入した瞬間に生じた、摩擦と過熱と誤作動の痕跡そのものだったのである。
彼は完成された料理を提供したのではない。
西洋近代と日本の身体感覚が衝突する熱い鍋を、自室の奥で煮込み続けていた。
そして後の時代が、その未整理な匂いを「日本前衛」の起源として皿へ盛り直したのである。


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