ヒップホップでは、新しいフロウや新しいサウンドを獲得することが創造だと考えられがちである。しかし、長いキャリアを積んだラッパーにとって、創造とは必ずしも新しい技法を発明することではない。
むしろ、自ら築き上げた形式を、他者との対話の中で揺らし、更新し続けることにある。

2チェインズ(2 Chainz)と リル・ウェイン(Lil Wayne)による『コレグローヴ(ColleGrove)』(2016)、そして『ウェルカム2コレグローヴ(Welcome 2 ColleGrove)』(2023)は、そのことをよく示している。
『コレグローヴ』というタイトルは、2チェインズの故郷であるジョージア州コレッジパーク(College Park)と、リル・ウェインが育ったニューオーリンズのホリーグローヴ(Hollygrove)を組み合わせた造語である。二人の名前を並べた作品ではなく、それぞれの土地と経験、そして身体性が交わる「第三の場所」を最初から作品の中心に据えているのである。

二人が共作した時点で、それぞれのスタイルはすでに完成していた。2チェインズは豪快なユーモアと大胆な比喩を自在に操る語り口を確立し、リル・ウェインもまた、独特の声質と圧倒的なライム・センスによって、一つの形式として成立していた。
だから、この二枚のアルバムの魅力は、「新しいスタイル」を提示することではない。『コレグローヴ』という架空の場所で、完成した二つの形式が互いに向き合い、応答し、その都度、新しい組み合わせを生み出していくことにある。それは二人の個性が溶け合うことではなく、それぞれの形式を保ったまま関係を結び、新たな表現を立ち上げる創造なのである。

もっとも、この二枚のアルバムは、こうした構造を意識しなくても純粋に楽しめる作品でもある。サウス特有のきらびやかなシンセと太く響く808は、時代の最先端を追う鋭さよりも、開放感と高揚感を生み出している。その上で2チェインズはユーモアに富んだ比喩を軽快に繰り出し、リル・ウェインは技巧を誇示するよりも、言葉そのものを自在に転がすようにラップを重ねる。二人の応酬には勝敗を競う緊張感よりも、成熟した表現者同士が互いの語彙を楽しみながら響かせ合う余裕がある。その軽やかさこそが、『コレグローヴ』の大きな魅力なのである。
これはジャズのソロ回しに似ている。
ジャズの即興演奏は、完全な白紙から生まれるものではない。演奏家は長年の経験によって蓄積したフレーズやモチーフを持ち、それらを演奏の場で組み替え、相手の演奏に応答しながら、新しい流れをつくっていく。
創造とは、新しい音を発明することではなく、蓄積された形式を、その瞬間の関係性の中で編集することなのである。

ラップもまた同じである。
リル・ウェインには独自の韻の運び方や語尾の処理、息遣いがあり、2チェインズには比喩の置き方やユーモア、リズムの揺らし方がある。それらは即興的に生まれているようでいて、長年かけて形成された「語彙」の集積でもある。
『コレグローヴ』では、その語彙が互いに呼応する。片方が細かなライムを積み重ねれば、もう片方もそれに応じて言葉を返す。大胆な比喩には、さらに大胆な比喩が重ねられる。競争しているようでいて、その実態は相手の形式を受け止め、自らの形式を少しだけ変形させる編集の応酬である。

『ウェルカム 2コレグローヴ』になると、その関係はさらに成熟する。
若い頃のように優劣を競う緊張感よりも、互いのスタイルを知り尽くした者同士が、安心して言葉を交わしているような空気が流れる。そこではトラックも過度に新奇なものを求めず、ラップそのものが主役となる。
興味深いのは、この二枚のアルバムが、トラップ以降の急速な音響変化の時代に制作されていることである。

若い世代が新しいサウンドを切り開いていく中で、彼らは流行を追いかけることよりも、自らの形式を磨き続けることを選んだ。
これは保守ではない。
形式が十分に成熟したとき、創造の中心は技法の発明から、形式同士の対話へと移るのである。
この構造は、現代美術にも見ることができる。
成熟した作家は、毎回まったく新しい技法を生み出すのではない。長年培ってきた形式を携えながら、他者や歴史、作品との関係の中で、それを少しずつ更新していく。

創造とは、新しさだけでは測れない。
むしろ、すでに持っている形式を、どれだけ豊かな関係性の中で編集できるか。その編集能力こそが、成熟した表現者の創造性なのである。
『コレグローヴ』の二枚は、ラップの競演というより、完成した二つの形式が互いを映し合いながら、新しい表現へと開かれていく過程を記録した作品なのだ。

ウォーホル×バスキア──完成した形式は、対話によって再び動き始める
創造とは、一人で世界を切り開くことだけではない。
成熟した表現者にとって創造とは、自ら築き上げた形式を閉じることなく、他者との関係の中で揺らし、新しい表現へと開いていくことでもある。
そのことを最も鮮やかに示したのが、1980年代にアンディ・ウォーホルとジャン=ミシェル・バスキアが行った共同制作だった。

しかし、二人は同じ場所から出会ったわけではない。
ウォーホルはすでにポップアートを代表する存在であり、二十年以上にわたって現代美術の第一線を歩んできた巨匠だった。一方のバスキアは、ストリートから現れた新しい時代の象徴として急速に評価を高めていた若き画家である。
世代も経験も社会的立場も大きく異なる二人であり、この共同制作は最初から対等な出会いだったわけではない。
二人は約一年半の間に百五十点以上の作品を制作している。

ウォーホルは企業ロゴや広告、シルクスクリーンによる反復イメージを画面へ置く。するとバスキアは、その上へ文字を書き込み、身体を描き、線を走らせる。そしてウォーホルが再び画面に介入する。
こうして作品は、一人が完成させるものではなく、互いの応答によって変化し続ける場となった。
当時、この共同制作は「巨匠と新世代」という物語として大きな注目を集めた。そこには互いを利用しているのではないかという見方や、話題性を狙った企画ではないかという声もあった。しかし、百五十点を超える制作の積み重ねは、そうした説明だけでは捉えきれない。ウォーホルは自らの完成した様式を若い画家へ押しつけることなく、バスキアもまた巨匠の表現に従属しなかった。画面の上では、肩書きや世代ではなく、一つのイメージにどう応答するかだけが問われていたのである。

重要なのは、どちらか一方の様式がもう一方を飲み込んでいないことである。
ウォーホルは最後までウォーホルであり、バスキアも最後までバスキアである。
企業イメージの平坦な反復と、身体を引き裂くような激しい線は、一つに溶け合うことなく同じ画面に存在し続ける。そこでは統一ではなく、違いを保ったまま続けられる対話そのものが作品となっている。
この構造は、2チェインズとリル・ウェインによる『コレグローヴ』『ウェルカム2コレグローヴ』にも通じている。完成した形式と勢いに満ちた新しい形式は、互いを消し去るのではなく、それぞれの個性を保ったまま応答し、新しい関係を生み出していく。

しかし、絵画には音楽とは異なる特徴がある。
ラップの掛け合いは時間の流れの中で展開していく。一方、ウォーホルとバスキアの共同制作では、その応答の履歴が一枚の画面の中に積み重ねられていく。ウォーホルが置いたイメージの上へバスキアが描き込み、さらにウォーホルが介入する。その痕跡は消されることなく残り続け、画面そのものが対話の記録となるのである。
だから、この作品の魅力は、どちらが主導したかということではない。企業ロゴや商品イメージの無機質な反復と、バスキアの荒々しい線や文字は、最後まで互いの性格を失わない。その異質な形式が一枚の画面の中でせめぎ合い、緊張し続けることによって、一人では到達できなかった新しい絵画空間が生まれている。

ここでは完成とは、対立が解消されることではない。異なる形式が違いを保ったまま共存し続けること、その関係自体が作品となるのである。
若い作家にとって創造とは、自分だけの形式を獲得することだろう。一方、成熟した作家にとって創造とは、その形式を完成品として守ることではない。ときには自ら築き上げた世界を他者へ開き、自分自身もまた変化を受け入れる勇気を持つことである。
ウォーホルとバスキアは、対等な立場だったから新しい作品を生み出したのではない。世代も経験も評価も異なる二人が、その違いを消そうとせず、互いの応答を信頼したからこそ、新しい絵画空間が生まれたのである。そして『コレグローヴ』は、同じ構造を時間の流れの中で音楽として響かせた。

創造とは、孤独な天才の閃きだけではない。
完成した形式が新しい感覚と出会い、その違いを失わないまま応答を続けるとき、創造は個人の才能を超え、異なる世代や経験が交差する場として立ち上がるのである。

リル・ウェイン『Tha Carter IV』― 制御されかけた奇跡 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

コメント