混ぜすぎた美術史 136 ~工藤哲巳

アート

工藤哲巳(1935〜1990、日本)

見せ物としての未来

工藤哲巳の作品を見ると、花やしきのお化け屋敷を思い出すことがある。

気持ち悪い。怖い。できれば見たくない。けれど、なぜか目を離せない。人体の一部のようなもの、奇妙な器官、植物、電線、プラスチックなどが組み合わされ、見慣れた生物とはまったく違う姿をつくり出している。それは怪物の標本のようでもあり、まだ発見されていない生命体の展示のようでもある。

出典:Artpedia/工藤哲巳「あなたの肖像」

工藤はしばしば、オブセッション(強迫観念)の作家として語られる。確かに、身体の変形や増殖、奇妙なもの同士の接続といったイメージは、作品のなかで繰り返し現れる。しかし、そうした解説を読むと、少し素朴な疑問も湧いてくる。これほどの強迫観念を本当に日常生活でも抱えていたのだろうか。もしそうなら、普通に生活できるのだろうか、と。

出典:Artpedia/工藤哲巳「汚染ー養殖ー新しいエコロジー」

もちろん、作品から作者の精神状態を推測することはできない。むしろ、作品に現れる異様さと、生活する人間としての作家を同一視してよいのかという疑問がある。工藤は強迫観念に取り憑かれた人だったのだろうか。それとも、そうしたイメージをつくり出し、ひとつの世界として見せることに長けた作家だったのだろうか。

お化け屋敷には、それをつくり、怪物を配置し、観客に見せる人間がいる。そう考えると、工藤の作品には、単なる内面の表出とは別の、演出する側の意識も感じられる。作品の数も少なくない。ひとつの異様なイメージを繰り返すだけでなく、次々と形を変え、新しい生命や身体のあり方をつくり出していく。そこには、見せることそのものへの関心があったのではないだろうか。

出典:Artpedia/工藤哲巳「汚染ー養殖ー新しいエコロジー」

一種の興行と考えることもできる。作家が異様な世界をつくり、観客はそこへ足を運ぶ。怖がりながらも楽しみ、その奇妙さに驚く。

美術関係者は、そこに核時代の人間や科学技術の問題を読み取り、新しい表現として評価する。作家、観客、批評する側の欲望が、うまくかみ合っていたのかもしれない。

出典:Artpedia/工藤哲巳「汚染 – 栽培 – 新しい生態系 – あなたの肖像画」

1950年代末から60年代にかけての日本では、読売アンデパンダン展やネオ・ダダなど、既成の美術の形式や価値観を揺さぶる動きが活発になっていた。廃棄物や日用品、身体、行為など、それまで美術の素材とは考えられていなかったものまでが作品に取り込まれていく。未知のものや異質なものに、新しい表現の可能性を見いだそうとする空気があった。

出典:Artpedia/工藤哲巳「汚染ー養殖ー新しいエコロジー」

さらに、当時は科学技術の発展や宇宙開発への期待と不安が広がり、突然変異や未知の生命体といったイメージも、現在よりずっと生々しい未来の想像力と結びついていた。工藤の作品も、単なる怪物や死体の展示というより、これから現れるかもしれない生命の見本市のように見える。お化け屋敷であると同時に、未来博覧会でもあるのだ。

出典:Artpedia/工藤哲巳「汚染ー養殖ー新しいエコロジー」

そこには、文明への批判だけでは説明できない、奇妙な楽しさもある。悪趣味で、猥雑で、どこか滑稽。人間と動物、自然と人工物、身体と機械が混ざり合い、見たことのない姿に変わっていく。工藤は、その不気味さを隠したり整えたりするのではなく、むしろ次々と見せていく。観客もまた、見たくないものを見たいという欲望を通して、その世界に引き込まれていく。

出典:Artpedia/工藤哲巳「汚染ー養殖ー新しいエコロジー」

工藤の作品を、個人的な強迫観念の表れとしてだけ見るのは少し狭いのかもしれない。そこには、異様な世界をつくり出す作家と、それを見たい観客、そして新しい意味を与えようとする美術界との関係があった。彼は人間の変質を描いただけでなく、その変質を見せ物として成立させることにも長けていたのではないだろうか。

彼は皿に、変形する身体と未知の生命を、恐怖と好奇心を煽る見世物のように盛ったのだ。

出典:Artpedia/工藤哲巳「電子回路における放射能による培養」

PS: 工藤哲巳の作品を「密室の生態」という視点から捉えた文章は、別稿「カツカレーカルチャリズム画家列伝97~工藤哲巳編」で詳しく取り上げています。興味のある方は、下のリンクから、そちらもどうぞ。

カツカレーカルチャリズム画家列伝97 ~工藤哲巳 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

コメント

タイトルとURLをコピーしました