世界を包む芸術
抽象表現主義は、絵画に含まれていたものを極限まで豊かにした。
色、絵具、身体、偶然、精神、時間。
一枚の画面のなかに、それらを全部入れてしまった。
しかし、その豊かさはやがて分解される。
ミニマル・アートは、物質や空間を取り出した。
コンセプチュアル・アートは、さらに作品から概念や言語を取り出した。
絵画という料理から、成分が一つずつ抽出されていく。
そしてフルクサスは、そこからさらに別の方向へ進んだ。
作品を作らなくてもいい。
日常の行為でもいい。
食べてもいい。
遊んでもいい。
指示だけでもいい。
芸術を生活のなかへ溶かしてしまう。
ここまでは、ある意味で「料理をやめていく」方向だった。
ところが、その先に現れたヨーゼフ・ボイスとクリストは、少し違うことを始める。


今度は、世界そのものを包み始めた。
ヨーゼフ・ボイス ─ 理念で世界を包む
ボイスはフルクサスの自由さを引き継ぎながら、それを遊びのまま終わらせなかった。

ただ、ボイスの「社会彫刻」には、フルクサスだけでは説明できない、もう一つの前史がある。
それが、ドイツの彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックだった。
レームブルックは、細長く引き伸ばされた人体や、内向的で精神性の強い彫刻によって知られる。彼の作品では、身体は単なる肉体の形ではなく、そこにある精神や孤独までを含んだものとして現れている。

ボイスは若い頃にレームブルックの彫刻を写真で見たことが、自分が彫刻家になるきっかけになったと後に語っている。二人が直接会うことはなかったが、ボイスはレームブルックを自分の「教師」とまで呼んだ。1986年のレームブルック賞受賞講演では、その彫刻を見た瞬間に「彫刻によって何かができる」という直感を得たことを語っている。

ここからボイスの彫刻観を考えると面白い。
レームブルックの彫刻には、まだ人間の身体という具体的な器がある。
身体を削る。
伸ばす。
細くする。
沈黙させる。
しかし、その身体の内部には、すでに物質以上のものが入り込んでいる。

ボイスは、その「彫刻の内部にあるもの」を、今度は彫刻の外へ流し出していった。
芸術は絵や彫刻だけではない。
人間の行為そのものが創造的であり、社会そのものを変えていける。
「社会彫刻」という考え方によって、芸術は作品の外へ広がっていく。
教育も政治も環境も、人間関係も、芸術になりうる。
ここで重要なのは、ボイスが単に「日常も芸術です」と言ったわけではないことだ。
2.jpg)
彼は、芸術そのものを社会の変化を生み出す力として考え直そうとした。
講演する。
議論する。
人を集める。
木を植える。
政治活動をする。
作品をつくることだけが創造ではない。
人間が考え、話し、行動し、社会のあり方を変えていくことそのものが「彫刻」になる。
3.jpg)

だからボイスにとって、彫刻はもはや石や木を削ることではない。
社会そのものを形づくることだった。
レームブルックが彫刻の内部に精神を入れたとすれば、ボイスはその精神を社会へ流し出した。
身体から行為へ。
行為から思考へ。
思考から人間関係へ。
そして、人間関係から社会へ。
彫刻は、物体の大きさを超えて膨張していく。
《7000本の樫の木(7000 Oaks)》では、その考えが都市の規模まで拡張される。

カッセルの街に7,000本の木を植え、その隣に玄武岩の柱を置いていく。

一本の木は小さい。
しかし、それが7,000本集まれば、都市の風景そのものが変わる。
そこには環境、時間、市民参加、都市計画、経済、政治が入り込んでくる。

作品は、完成した物体ではなく、人間と社会を動かすプロセスになっていく。
これはフルクサスの「何でも芸術にできる」を、社会の規模まで拡大したようにも見える。
ただし、ここにはボイス特有の危うさもある。

日常の行為は、そのまま日常に置かれているのではない。
「社会彫刻」という理念によって包まれる。

身体も、自然も、教育も、政治も、芸術も、一つの大きな思想の中に入っていく。
フルクサスが世界を芸術に開いたとすれば、ボイスは世界を一つの理念で包み込もうとした。
そこにはユートピア的な魅力がある。
人間の創造性を信じ、社会そのものを変えられると考える。
けれど、その理念が強くなりすぎれば、自由を語る言葉そのものが新しい教義になってしまう。

ボイスの強烈なカリスマ性も、その両義性のなかにある。
彼は作品だけでなく、服装や声、身振り、物語、思想まで含めて「ボイス」という一つの世界を作っていった。
芸術家の権威を解体するはずだった美術が、今度は芸術家自身を巨大な象徴にしていく。
作品を消そうとしたら、作者そのものが作品になった。
クリスト ─ 世界を物質で包む
クリストは、まったく別の方法で世界を包んだ。
建物を包む。
海岸を包む。
橋を包む。
公園を包む。

しかし、クリストの仕事を単に「巨大なインスタレーション」と考えると、その面白さを見落としてしまう。
彼が包んだのは物体だけではない。
その場所に存在する人間の視線や記憶まで、一時的に包み直した。
《包まれた海岸(Wrapped Coast)》では海岸線が布に覆われ、《包まれたライヒスターク(Wrapped Reichstag)》では国会議事堂そのものが巨大な布に包まれた。

建物は同じ建物なのに、包まれた瞬間、突然見知らぬものになる。
普段は見慣れているために見えなくなっていたものが、隠されることで逆に意識される。
隠すことで、見えるようになる。

しかも、クリストの作品には奇妙な潔さがある。
作品は永遠に残らない。
巨大な費用と労力をかけてつくられたものが、やがて撤去される。
残るのは写真、映像、記憶、そして「かつてそこにあった」という経験だけだ。

つまりクリストは、物を残すことで価値を作るのではなく、一時的に現実を変えることで価値を作った。
さらに、その実現までには土地所有者、行政、住民、技術者、資金、メディアなど、膨大な人間と制度との交渉が必要になる。
作品は完成した瞬間だけではなく、そこへ至る交渉や計画そのものによって成立している。
この意味では、クリストもまた作品を巨大化させている。

ただしボイスが社会を理念によって動かそうとしたのに対し、クリストは現実の抵抗そのものをプロジェクトの一部にしてしまう。
許可が必要なら交渉する。
反対されれば説得する。
技術的に無理なら方法を考える。
理念を語るだけでは、布は風に飛ばされてしまう。
だからクリストの作品には、ボイスとは別の現実感がある。

理念の小籠包と、布の小籠包
こうして見ると、ボイスとクリストは意外なほどよく似ている。
ボイスは、
世界を理念で包んだ。

クリストは、
世界を布で包んだ。

ボイスが社会、政治、教育、環境を「社会彫刻」という大きな観念に包み込んだのに対して、クリストは建築や風景という巨大な現実を、文字通り布で包み込んだ。
二人とも、作品をキャンバスや彫刻台座から解放し、都市や社会や環境へと拡張していった。


違うのは、包むものだ。
ボイスは概念で包み、クリストは物質で包む。
ボイスにとって重要なのは、世界を変えるための理念だった。
クリストにとって重要なのは、理念を現実の場所で実現するための具体的な方法だった。
一方は社会を彫刻し、もう一方は世界を一時的に彫刻する。

言ってみれば、二人は20世紀美術の「小籠包」である。
ボイスの小籠包を噛めば、中から熱い理念が飛び出してくる。


クリストの小籠包を割れば、その中には巨大な現実の風景が入っている。
そして、この「包む」という行為には、もう一つの意味がある。
包むことは、価値を与えることでもある。
普通の木が、社会彫刻になる。
普通の建物が、世界的な出来事になる。
見慣れた風景が、突然見るべきものになる。
芸術は、対象そのものを変えなくても、それを包む方法によって価値を変えることができる。

これは、現代美術が獲得した非常に強力な技術だった。
しかし同時に、危険な技術でもある。
何でも理念で包めば、何でも芸術になってしまう。
何でもプロジェクトにすれば、巨大な価値を持っているように見えてしまう。
包み紙が立派になりすぎれば、中身が見えなくなる。
カツカレーカルチャリズムから見ると、ここが面白い。

抽象表現主義は、全部を一皿に盛った。
ミニマルとコンセプチュアルは、そこから栄養素を抽出した。
フルクサスは、料理の外へ飛び出して、日常そのものを食べ始めた。
そしてボイスとクリストは、その世界をもう一度包み始めた。
理念で包む。
布で包む。
社会で包む。
プロジェクトで包む。
けれど、包むことだけが方法ではない。
全部を一つの理念で包まなくてもいい。
全部を一つの作品にまとめなくてもいい。

米は米、カレーはカレー、カツはカツのままでもいい。
それぞれ違うものが、同じ皿の上で一緒に食べられる。
包むのではなく、混ぜる。
しかも、きれいに混ざらなくてもいい。
少しはみ出していてもいい。
隣の味が移ってもいい。
妙な組み合わせが残っていてもいい。
そのほうが、料理には味がある。
そして、そこからもう一度、別の美術史が始まる。



コメント