純粋性はなぜサプリメントになったのか

抽象表現主義は、絵画という料理が最も豊潤になった瞬間だった。
そこには、絵具の物質感、作家の身体、制作の時間、無意識、精神性といった多くの要素が混ざり合っていた。ポロックのドリッピングやロスコの色面は、単なる視覚情報ではなく、身体全体で受け取る体験だった。
絵画は、見るものというより、そこに入り込むものだった。
しかし、その豊かさは同時に問題も生んだ。
絵画はあまりにも多くのものを背負いすぎていた。
芸術は、歴史、個人の精神、身体性、社会的意味をすべて引き受ける巨大な料理になっていた。
そこで1960年代、美術は自らを分解し始める。





マルセル・デュシャンが示した「芸術は物ではなく、考え方によって成立する」という可能性と、抽象表現主義が追求した「絵画の純粋な経験」が出会ったとき、美術は自分自身の成分分析を始めた。
ミニマル・アートは、絵画から物質的条件だけを抽出した。
形態、素材、空間。
それ以外の要素を極限まで排除することで、作品が成立する最小条件を探った。


コンセプチュアル・アートは、さらに作品から概念だけを抽出した。
物ではなく、アイデアそのものが芸術になる可能性を提示した。
それは、料理から栄養素を取り出す作業に似ている。

カツカレーから米、カレー、豚肉を分離し、「カツカレーとは何か」を分析するようなものだ。
この抽出によって、美術は新しい自由を得た。
絵画という形式に縛られることなく、物体、行為、言語、制度そのものを芸術の領域に含めることができるようになった。
しかし同時に、美術は栄養表示を必要とするようになった。
なぜこの物体が作品なのか。
なぜこの行為が芸術なのか。
どのような社会的、制度的意味を持つのか。
作品を見るためには、視覚的な体験だけではなく、説明や批評という「栄養成分表示」が必要になった。

それは美術が弱くなったということではない。
むしろ、情報化し、複雑化した社会の中で、美術が自分自身を維持するために獲得した新しい栄養素だった。
しかし、その後の現代美術では、この栄養素そのものが目的化することもあった。
コンセプト、批評性、社会的テーマだけが先行し、作品がまるで栄養機能食品のようになる。
必要な成分はすべて含まれている。
健康的で、正しい。
しかし、いつしか美術は別の意味での「健康管理」に向かい始めた。

余計なものは削る。
感情は抑える。
装飾は避ける。
身体的な快楽より、正しい成分を摂取する。
それは、カロリーメイトを中心に、チキンバーとブロッコリーを欠かさないダイエットのようでもある。

もちろん、それは間違いではない。
身体を維持するためには必要な食事であり、美術においても批評性や概念性は重要な栄養素である。
しかし、人間は栄養だけでは文化を作らない。
食事には、香り、温度、偶然、記憶、誰と食べるかという時間が必要になる。
料理には、効率では測れない余剰がある。

カツカレーカルチャリズムとは、まさにその地点から始まる。
一度分解された栄養素を否定するのではなく、それらを知ったうえでもう一度料理に戻す。
抽象表現主義の身体性。
ミニマルの構造意識。
コンセプチュアルの批評性。
ポップカルチャーや個人的記憶。
それらを混ぜ直し、現在の味として提示する。

カツカレーは、純粋な料理ではない。
カレーという異文化、豚カツという洋食化された日本文化、ご飯という日本の主食が混ざり合った、過剰で矛盾した料理である。
しかし、その混ざりすぎた状態こそが文化になる。
純粋性を追求した結果、美術は一度サプリメントになった。 そして現在、美術はもう一度、人間が味わう料理へ戻ろうとしている。


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