更新から編集へ ─ 飽和する社会と創造の転換 Ⅱ

コラム・アート概論

抽象表現主義という結節点 ─ 近代美術はどこで飽和したのか

もし現代が「飽和」の時代だとすれば、美術はその状態をずっと以前に経験していた。その象徴が、第二次世界大戦後のアメリカで展開した抽象表現主義である。

一般には巨大なキャンバスに激しい身振りで描く絵画として知られるが、その本質は様式ではない。そこには、近代美術を長く動かしてきた「新しいものをつくり、前の時代を乗り越える」という創造のモデルが、ひとつの臨界点に達したという意味がある。

出典:Artpedia/ジャクソンポロック

ルネサンス以降、西洋美術はさまざまな方法で更新されてきた。より正確な遠近法。より豊かな色彩。より自由な筆触。より新しい視点。

出典:Artpedia/マザッチオ「聖三位一体」

印象派は光への見方を変え、セザンヌは対象の構造を問い直し、キュビスムは一つの視点に収まらない複数の見え方を画面に持ち込んだ。

出典:Artpedia/ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」
出典:Artpedia/左:パブロ・ピカソ「ギターと女」、右:ジョルジュ・ブラック「移民」

もちろん、美術の歴史は一直線の進歩ではない。過去への回帰もあれば、異なる文化からの発見もあり、古い形式の再評価もあった。

それでも近代になると、「これまでになかったものをつくること」そのものが、芸術の重要な価値になっていく。

つまり、近代美術を動かしたのは、単純な意味での「上達」ではない。

新しい形式を生み出すことによって、歴史を前へ進める。

その考え方である。

二十世紀に入ると、この更新はさらに加速する。フォーヴィスム、未来派、ダダ、シュルレアリスム、構成主義……。次々に新しい運動が現れ、それぞれが「これまでの芸術」と異なる方法を探した。

出典:Artpedia/マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体No.2」
出典:Artpedia/ルネ・マグリット「脅かされた暗殺者」
出典:Artpedia/アレクサンドル・ロトチェンコ「知識の全ての文や」

ここでは、芸術の価値と新しさの価値が強く結びついていく。

抽象表現主義は、この長い更新の歴史を受け継ぎながら、「絵画とは何か」という問いを極限まで押し進めた。

ポロックは身体全体を使って描き、ロスコは色彩だけで精神的経験を成立させ、ニューマンは最小限の要素から崇高を立ち上げ、デ・クーニングは抽象と具象の境界を揺さぶった。

出典:Artpedia/マーク・ロスコ「No.14 」
出典:Artpedia/ウィレム・デ・クーニング「女Ⅰ」

彼らが目指したものは異なる。しかし共通していたのは、絵画というメディアの可能性を、それぞれの方法で限界まで押し広げようとしたことである。

そして興味深いのは、その「極限」のあとである。

抽象表現主義の後、美術は一つの方向へ進んだわけではない。むしろ、一斉に枝分かれしていく。

ミニマル・アートは形態と感情を極限まで削ぎ落とし、コンセプチュアル・アートは作品を成立させる概念そのものへ向かい、ポップ・アートは大衆文化を美術の内部へ取り込み、ネオ・エクスプレッショニズムは再び身体性やイメージの強度を呼び戻した。

出典:Artpedia/ドナルド・ジャッド/インスタレーション
出典:Artpedia/アンディ・ウォーホル「マリリン・ディプティック」
出典:Artpedia/ゲオルグ・バセリッツ「大きな晩ごはん」

この流れは、抽象表現主義が「終点」ではなく、巨大な分岐点だったことを示している。

では、なぜ分岐が起こったのか。

その理由を、私は「飽和」に求めたい。

抽象表現主義は失敗したのではない。むしろ、あまりにも成功したのである。

身体性も。色彩も。精神性も。画面のスケールも。

絵画というメディアの可能性を、さまざまな方向から極限まで押し広げてしまった。

出典:Artpedia/バーネット・ニューマン「英雄的にして崇高なる人」

その結果、「さらに新しい絵画をつくる」という近代的な更新のモデルそのものが、次第に難しくなっていく。

ここで重要なのは、絵画の可能性がなくなったわけではないということだ。

なくなったのは、「前の形式を乗り越えることで、次の歴史をつくる」という一つの方法の優位性である。

だから、その先へ進むには、同じ方向をさらに伸ばすだけでは足りなくなった。

改善は続く。しかし、改善する対象が変わる。

画面を新しくするだけではなく、素材を変える。作品のあり方を変える。美術と社会の関係を変える。そもそも「何を作品と呼ぶのか」を問い直す。

つまり、形式の更新から、問題設定の更新へ。

これが、飽和によって生じた大きな転換だった。

出典:Artpedia/アンディ・ウォーホル「ブリロ・ボックス」

飽和は終わりではない。

むしろ、一つの方向に集まっていた可能性が、別々の方向へ解放される瞬間である。

革命だった形式は、やがて文化へ浸透する。

ポロックのドリッピングは広告やデザインへ、ロスコの色面は建築や空間表現へ、力強い筆触や大画面の身体性は、映画や写真、ゲームなどさまざまな視覚文化へ。

出典:Artpedia/セシル・ビートンは『ヴォーグ』誌の紙面で、ポロックの巨大な絵画の前に立つ洗練されたモデルたちを撮影した

思想は形式となり、形式は技法となり、技法は文化になる。

ここで、かつて「新しいもの」だったものが、社会の共有財産になっていく。

そして、これこそが次の創造を考えるうえで重要になる。

革命が文化になったとき、革命そのものを繰り返す必要はなくなる。

むしろ、すでに存在している膨大な形式、技法、イメージ、文化をどう組み合わせ、どう読み替え、どう別の場所へ移すかという問題が生まれる。

出典:Artpedia/ファッション化するドリッピング

二十世紀までの前衛美術は、「これまでにないもの」をつくることによって歴史を動かそうとしてきた。

しかし、革命が文化として蓄積された現代では、新しさの条件そのものが変わっている。

私たちはいま、「更新」の時代から「編集」の時代へ移りつつある。

抽象表現主義は、その転換を完成させたのではない。

「新しいものをつくることによって歴史を前進させる」という近代的な創造モデルが、最も強く可視化され、そしてその先で分岐を生み出した歴史的な結節点だったのである。

出典:Artpedia/ファッション化するドリッピング

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