ミニマル・アートとコンセプチュアル・アートが、美術を成分分析していったとすれば、その横から突然、ポップコーンとコーラを持って入ってくる人たちがいた。
「栄養? 知りません。」
それがフルクサスだった。
1960年代初頭、ジョージ・マチューナスを中心に、音楽、美術、詩、演劇、パフォーマンスなどの境界を越えて活動したフルクサスは、ダダやジョン・ケージの偶然性、戦後のネオ・ダダなどを引き継ぎながら、芸術と生活の境界そのものを曖昧にしていった。1962年にヨーロッパ各地で開催された最初期の活動も、短い行為、簡単な指示、実験音楽、偶然性を組み合わせたものだった。

たとえば、何かをこぼす。
何かを壊す。
ドアを開ける。
音を出す。
観客に何かをしてもらう。
それだけでもいい。
ジョージ・ブレヒトの「イベント・スコア」は、日常のごく小さな行為を、芸術になるかもしれない出来事として提示した。
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オノ・ヨーコの《グレープフルーツ》も、完成した作品を見せるのではなく、指示によって観客の想像や行為を引き出していく。作品は物体ではなく、これから起こる出来事の入口になった。


ここには、ミニマルやコンセプチュアルとは違う軽さがある。
もちろん、フルクサスも「芸術とは何か」という重大な問題を扱っている。
しかし、その重大さを、重大そうに扱わない。
芸術を変える。
作者の権威を壊す。
美術と生活を分けない。
既存の制度に抵抗する。
そんな革命的なことを言いながら、やっていることは妙にくだらない。
そこが面白い。

ダダが「芸術なんて馬鹿らしい」と言ったとき、その言葉には第一次世界大戦後の世界に対する怒りがあった。
フルクサスは、そのダダをもう一度取り出し、戦後の大量消費社会のなかで、もっと小さく、軽く、遊べるものにしていった。
つまり、革命を革命のままにしない。
「芸術を破壊する」という大げさな理念を掲げながら、実際には、日常のなかに小さな穴を開けていく。
それは、カツカレーカルチャリズムから見るとかなり特殊な食べ方である。
カツも食べない。
カレーも食べない。
ご飯も食べない。
福神漬けだけつまんでみたり、フライドオニオンだけ食べてみたり、突然スプーンを置いてみたりする。
そして、
「これも食事じゃない?」
と言ってみる。

フルクサスは、料理を混ぜるのではなく、料理という制度そのものを遊びに変えてしまった。
だから、フルクサスは「美術の純粋性」を追求した運動ではない。
むしろ、純粋性そのものから逃げている。
絵画なら絵画らしく。
音楽なら音楽らしく。
彫刻なら彫刻らしく。
そういう分類が面倒になってくる。
音も、身体も、言葉も、観客も、偶然も、日常も、全部使ってしまえばいい。
美術館に入る前の日常と、美術館の中の芸術を、きれいに分ける必要もない。
この意味でフルクサスは、ネオ・ダダの延長線上にありながら、それを国際的で学際的なネットワークへと広げた運動だった。マチューナスの周囲には、ジョージ・ブレヒト、ナム・ジュン・パイク、オノ・ヨーコ、アリソン・ノウルズ、ディック・ヒギンズ、ベン・パターソンなど、さまざまな分野の作家が集まった。



そして、この動きは日本とも深く交差する。
具体美術はフルクサスそのものではないが、戦後日本で、身体、素材、偶然、行為を直接的に作品へ持ち込んだ重要な別ルートだった。白髪一雄が身体で絵具を扱い、村上三郎が紙を突き破り、田中敦子が電飾のドレスをまとったように、ここでも絵画は「見るもの」から「起こること」へと変わっていった。具体とフルクサスは同一の運動ではないが、戦後の前衛が、絵画や彫刻という既存の形式から行為や出来事へ向かったことを考えるうえで、重要な並行関係にある。




しかし、ここには一つの皮肉がある。
ダダも、フルクサスも、既存の美術制度を壊そうとした。
ところが、革命には持続可能性という問題がある。
一度「作品なんていらない」と言ったとしても、誰かがそれを記録しなければ、その出来事は消えてしまう。
誰かが保存しなければ、次の世代には伝わらない。
誰かが展示し、研究し、歴史に位置づけなければ、「フルクサス」という名前さえ残らない。
そして実際、フルクサスは美術館の中に戻ってきた。
かつて芸術作品そのものを疑ったイベント・スコアや小さなオブジェクトは、いまでは美術館のコレクションになっている。反芸術を掲げた行為も、歴史的な作品として展示される。
これは失敗ではない。
制度の敗北でもない。
むしろ文化というものが持つ、奇妙な持続力なのだと思う。

革命は制度を壊す。
しかし、制度は革命を保存する。
そして保存された革命は、いつかまた次の革命の材料になる。
フルクサスが面白いのは、まさにこの循環の途中にいることだ。
芸術をなくそうとした運動が、芸術史の重要な一章になる。
作品を作らないことを目指した作家の行為が、作品として保存される。
作者の権威を疑った運動から、後世にはオノ・ヨーコやナム・ジュン・パイク、ジョセフ・ボイスのような強烈な個人のイメージが生まれていく。


つまり、芸術は何度「終わろう」としても、別の姿で戻ってくる。
だからフルクサスは、革命の完成ではない。
むしろ、革命さえも文化の材料になってしまうことを教えてくれる。

カツカレーを壊して、福神漬けだけ食べてもいい。
ポップコーンとコーラだけでもいい。
厨房を飛び出して、食卓そのものを遊び場にしてもいい。
でも、しばらくすると誰かが言う。
「それも、カツカレーの歴史ですよ。」
そうやって、文化はまた混ざり始める。



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