メソッド・マン(Method Man)の『ティカル2000(Tical 2000: Judgement Day)』を改めて聴いていると、不思議な感覚になる。
音が多い。
スキットが入り、声が入り、さまざまなプロデューサーのビートが入り、終末論的なイメージまで重なってくる。それなのに、音の奥には相変わらず埃っぽさがある。
湿っていて、少しこもっていて、きれいに整理されきっていない。
情報量は増えているのに、解像度は上がっていない。むしろ、いろいろなものが重なり、さらにぼやけている。

ここに『ティカル2000』の面白さがある。
1998年には、ウータン・クラン(Wu-Tang Clan)はすでに巨大な存在になっていた。1st『燃えよウータン(Enter the Wu-Tang)』や2nd『ウータン・フォーエバー(Wu-Tang Forever)』、各メンバーのソロ作品によって、「ウータンらしい音」は、すでに参照できるものになっていた。

多数のプロデューサーやゲストが参加し、スキットや終末論的な物語も重ねられた『ティカル2000』は、単なるラップ・アルバムというより、メソッド・マンとウータンの可能性をさまざまな方向から提示する作品になっている。
その過剰さが、独特の曖昧さを生んでいる。
ここで『ティカル(Tical)』(1994)に戻ると、その違いが見えてくる。
『ティカル』では、まだ「ウータンらしさ」が一つの様式として完全に定着していない。

RZAのビートには湿ったサンプルや粗いループがあり、メソッド・マンの声も少しこもっている。
メソッド・マン自身も、一つの型を極限まで研ぎ澄ますラッパーではない。
GZAのように言葉を精密に組み立てるわけでもない。レイクウォンのように、ウータンの音楽世界を安定した物語へと展開するわけでもない。ゴーストフェイスのように、ソウルや感情を大きく広げていくのとも少し違う。
メソッド・マンの特徴は、声の強い個性と、表現の仕方の柔軟さにある。
声を聴けば、すぐに彼だとわかる。しかし、フロウやラップの運び方は一つの型に固定されていない。トラックに応じて動き方を変え、周囲のラッパーとも自在に関係をつくる。
個性ははっきりしているのに、表現の輪郭は硬くない。

だからこそ、彼の声はRZAの埃っぽいビートによくなじむ。声とビートが互いの隙間に入り込み、どちらか一方に完全に支配されることがない。
ここには、異なるものをつなぐ働きがある。
メソッド・マンは、ウータンの音楽における一種の接着剤なのかもしれない。
ただし、異なるものを固定して一つにまとめる接着剤ではない。個々の要素をつなぎながら、その境界を少しずつ柔らかくしていく。
ソロのラッパーでありながら集団の中にも自然に入り込める。ウータンらしい声を持ちながら、ウータンらしいフロウだけにはとどまらない。
その柔軟さによって、個人と集団、ウータンの内側と外側が、完全には分かれない状態が生まれる。

『ティカル』には、そうした働きが自然に現れている。
声やビート、ユーモア、ストリート感、武術映画的なイメージが、完全には整理されないまま一緒に存在している。その状態が、後から「ウータンらしさ」と呼ばれるようになった。
つまり『ティカル』には、ウータンのイデアがまだイデアになる前の状態がある。
埃っぽく、湿っていて、少しこもっている。まだ形の定まらない、危うい中間状態である。
しかし、ウータンが大きくなるにつれて、その状態は変わっていく。
最初は自然に存在していたものが「ウータンらしさ」として認識されるようになる。すると今度は、そのらしさを保ったまま、新しいものを入れなければならない。
『ティカル2000』の過剰さは、その問題から生まれているように思える。
埃を取り除けばウータンらしさが消える。同じ埃だけを繰り返せば、ただの再現になる。
だから新しいプロデューサーやゲスト、スキット、物語を重ねていく。その結果、最初の埃の周りに、別の埃が積もっていく。

『ティカル』の曖昧さが「まだ名前のないもの」の曖昧さだったとすれば、『ティカル2000』の曖昧さは、すでに名前を持ったものが、その名前を背負いながら増殖していく曖昧さなのだと思う。
ここで、メソッド・マンの役割も変わってくる。
レイクウォンがウータンの音楽世界を安定させ、その中で独自の物語を展開するラッパーだとすれば、メソッド・マンは、その世界の輪郭を柔らかくするラッパーなのかもしれない。
レイクウォンがウータンの「普通」を成立させる存在なら、メソッド・マンは、その「普通」と別の何かが接する場所をつくる。
彼は自分の個性を保ちながら、トラックや共演者に応じて表現を変えていく。その結果、ウータンの様式は固定された型というより、さまざまなものが出入りできる空間になっていく。

『ティカル2000』の多様な音楽や声も、そうした性質と重なって聴こえる。
もちろん、アルバムの構成すべてをメソッド・マン自身の意図として説明することはできない。それでも、彼の声が異なるトラックの中で存在感を保ちながら、作品全体が一つの様式にまとまりきらないことは、このアルバムの面白さの一つだと思う。
これはウータンそのものにも当てはまる。
ソウル、ファンク、武術映画、ストリート、コミック、映画、宗教的な言葉、古いサンプル。
それらをきれいに統合するのではなく、少し埃をかぶったまま同じ場所に置いてしまう。

メソッド・マンのような存在が異なる要素のあいだを行き来し、それらをつなぐ。しかし、つながったものが完全に一つになるわけではない。
むしろ、つながることで、それぞれの違いを残したまま共存できるようになる。
ここには、現在とは違う価値がある。
今は音も映像も高い解像度で扱える。ノイズを消し、音を分離し、元ネタを調べることもできる。
しかし、解像度が上がることと、作品が豊かになることは同じではない。
マイルス・デイヴィスの『ゲット・アップ・ウィズ・イット(Get Up with It)』にも、何が鳴っているのか、どこまでが演奏で、どこからが空間なのか、完全には見えないような魅力がある。

すべてをクリアにしてしまえば、情報は増えても謎は減ってしまう。初期Wu-Tangにも、同じ価値があったのではないか。
だから、ウータンのイデアとは、特定のビートやラップ技術ではない。
異なるものが、まだ完全には整理されないまま、一つの場所に存在している状態そのものなのだと思う。
メソッド・マンの『ティカル』は、その状態が自然に現れた場所だった。そして『ティカル2000』は、それがすでに「ウータンらしさ」として知られるようになった後に、さらに多くの要素を受け入れ、その輪郭を広げようとした作品だった。

レイクウォンがウータンの「普通」をつくり、GZAがその重力を使って言葉を研ぎ澄ますとすれば、メソッド・マンは、その重力圏の内側と外側をつなぎ、境界を柔らかくする。
ウータンのイデアは、原型のまま保存されたのではない。
一度発見され、拡張され、再演されるたびに姿を変えていった。
『ティカル2000』は、ウータンが「らしさ」を失った記録ではない。
ウータンの「らしさ」が一つの文化になったとき、その内部から異なるものをつなぎ、さらに別の場所へ広がっていく働きが見えてきた記録なのだ。

ジグマー・ポルケ ─ 解像度が上がるほど、見えなくなる
ジグマー・ポルケの絵を見ると、まず「何が描かれているのか」がすぐには掴めないことがある。
人物や風景、広告のようなイメージがある。
しかし、その上に点が並び、別の模様が重なり、印刷のようなズレが起こっている。
近づいて見ると、写真のように見えていたものが、ただの点の集まりになっていく。

ポルケは1960年代から、新聞や雑誌の写真を拡大し、印刷に使われる網点を手作業で描いた。機械印刷の均一な点をわざとずらしたり、ぼかしたりすることで、複製されたイメージの中に誤差やノイズを持ち込んだのである。
面白いのは、情報を増やしているのに、像ははっきりしなくなることだ。

写真、印刷、点、絵具、手の動き、複製のズレ。
それらが同時に見えてくることで、私たちの視線は一つの意味に落ち着かなくなる。
ポルケは新聞や広告などの大衆的なイメージを画面に持ち込みながら、それをきれいに再現することはしなかった。
たとえば《マオ(Mao)》では、毛沢東の肖像を通して、政治的なイメージと印刷されたイメージの関係が揺さぶられる。そこでは肖像そのものだけでなく、それが複製され、流通し、意味を与えられていく過程までが、絵画の問題になっている。

だからポルケの絵は、単純なコラージュとも少し違う。
写真なのか絵なのか。
印刷なのか手描きなのか。
本物なのか複製なのか。
その境目が揺れたままになっている。
ここには、ウータンの音楽と重なるところがある。

ウータンも、ソウル、ファンク、カンフー映画、ストリート、コミック、宗教的な言葉、古いレコードなど、出自の違うものを一つの場所に置いた。
しかし、それらをきれいに統合したわけではない。
埃をかぶったまま、同じ場所に置いている。
メソッド・マンが異なるトラックやラッパーのあいだを行き来し、ウータンの輪郭を柔らかくする存在だとすれば、ポルケは、異なるイメージが同じ画面にあるとき、それらの境界や意味が簡単には定まらない状態をつくる。
一方は音楽の中で関係をつなぎ、もう一方は絵画の中で認識の焦点を揺さぶる。

どちらも、異なるものを一つに溶かすのではなく、違いを残したまま共存させている。
だからポルケの「低解像度」は、技術的に劣っているという意味ではない。
むしろ、情報が多すぎて、一つの意味に焦点が合わなくなるということだ。

いまは画像も音楽も、昔よりずっと鮮明になった。古い音源のノイズは取り除かれ、画像は高精細になり、検索すれば元ネタまで簡単に辿ることができる。
けれど、解像度が上がることと、豊かになることは同じではない。
見えなかったものが見えるようになる一方で、見えないからこそ残っていた謎まで消えてしまうことがある。

ポルケは、その逆方向に進む。
ズレ、滲み、重なり、複製、誤差。
完成された情報の表面に小さなほころびをつくり、そこから別のものが入り込んでくる。
異なるものを混ぜて一つにするのではない。
混ざりきらないものを、混ざりきらないまま置いておく。
そのとき、画面には少し埃が残る。 そして、その埃の向こうに、まだ名前のついていないものが見えてくる。

ウータン・クラン『Black Samson, The Bastard Swordsman』─ 神話からライブへ戻る音 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ
カツカレーカルチャリズム画家列伝59 ~ポルケ 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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