1. 目に見えるものから、目に見えないものへ
戦後のアメリカ美術を見ていくと、絵画とは何か、美術とは何かという問いが、次第に強くなっていく。
抽象表現主義では、描く行為や絵具の物質性が前面に現れる。ミニマリズムでは、作品の形や空間、鑑賞者との関係が問われる。コンセプチュアル・アートでは、作品を成立させる考え方そのものが主題となる。
そこでは、私たちが何を見ているのかだけでなく、なぜそれを美術として見るのか、作品はどのような条件によって成立しているのかが問題になる。
一方、ヨーロッパの絵画には、もう一つの方向がある。
それは、イメージを通して、目に見えないものに触れようとする態度だ。

宗教、神話、死、夢、欲望、恐怖。これらは、直接目で見ることのできないものだが、絵画はそれらを人物や動物、風景、奇妙な物体の姿に置き換えてきた。
ここでは、イメージは何かを説明するための挿絵ではない。イメージそのものが、感情や思考を動かす力を持っている。
この働きを考えるうえでは、イメージと意味の距離にも注目する必要がある。
たとえば「春」という言葉から、春を司る女神を思い浮かべる場合と、柔らかい日差しの差し込む縁側を思い浮かべる場合とでは、イメージにたどり着く道筋が異なっている。

前者では、季節という抽象的な概念が、神話や寓意の体系を通して人格を与えられる。後者では、光や温度、風景の記憶といった具体的な感覚から、春という時間が立ち上がる。

もちろん、西洋にも風景や光の感覚を重視する表現があり、日本にも神話や宗教的な象徴の体系がある。両者を単純に分けることはできない。
それでも、ヨーロッパの絵画では、神話や宗教、寓意といった共有された文化的な体系を通して、目に見えるものを別の意味へと接続する表現が、長い伝統を形成してきた。

イメージは、目の前の何かを表すだけでなく、目に見えない何かを指し示すものにもなる。
そして、その関係は、単に意味を伝えるためだけにあるのではない。イメージを目にしたときに生まれる感情や違和感が、私たちをさらに別の思考へと導いていく。
2. ドクロが呼び起こすもの
ある教会の地下に、無数のドクロが積み上げられている。
現代の日本人の感覚からすれば、かなり異様な光景に映るかもしれない。死者の頭蓋骨が、個人の顔を失いながら、空間を埋め尽くしている。そこには不気味さや恐怖がある。

しかし、その光景を別の文化的な背景から見ると、受け取る意味は変わってくる。
死者を弔うこと。限りある生を意識すること。肉体の死を超えた魂の存在を考えること。教会に残されたドクロは、そうした宗教的、文化的な意味と結びついてきた。
もちろん、こうした場所の意味は一様ではない。埋葬や追悼、信仰、歴史的な事情など、その場所ごとに異なる背景がある。それでも、ドクロという具体的なイメージが、死という抽象的な概念を、目の前にある現実として感じさせることは確かだ。

私たちは、死についての説明を読むだけでなく、無数のドクロが積み上げられた光景を見ることで、死を別の仕方で意識する。
ここでは、イメージが思考の出発点になっている。
まず何かが目に飛び込んでくる。そこに恐怖や違和感が生まれ、さらに、その意味を考え始める。感情と思考は、きれいに分かれているわけではない。目に見えるものが感情を動かし、その感情が新しい思考を促していく。
また、ドクロが呼び起こすものは、見る人の文化的な背景によっても異なる。

ある人にとっては死や恐怖を表すものであり、別の人にとっては信仰や追悼の対象となる。同じ形を見ていても、その形がどのような意味へとつながるのかは、必ずしも同じではない。
つまり、イメージは、それ自体に意味が固定されているわけではない。文化的な記憶や経験と結びつくことで、特定の意味を帯びる。
ヨーロッパの宗教画や幻想絵画を考えるときにも、この働きは重要になる。

3. 音楽もまた、感情と思考の場になる
アントン・ブルックナーの交響曲にも、似たところがある。
ブルックナーの音楽は、長大な構成、繰り返される主題、金管楽器の壮大な響き、そして静寂から大きな音響へと向かう展開によって、独特の時間をつくり出す。

その音楽を聴いていると、単に旋律や和声の変化を追っているだけではない感覚になる。建築物の内部を歩いているようでもあり、巨大な空間を前に立ち尽くしているようでもある。
宗教的な響きを感じる人もいるだろう。畏怖や高揚、祈りに近い感情を覚える人もいるかもしれない。
もちろん、音楽の構造から特定の感情が必然的に生まれるわけではない。聴く人の経験や文化によって、受け取り方は変わる。それでも、音楽の形式が、言葉による説明とは異なる仕方で、感情や思考を生み出すことはある。
ここで重要なのは、構造と感情が対立していないことだ。
ブルックナーの音楽には、緻密に組み立てられた構造がある。しかし、その構造を理解することだけが、音楽を聴くことではない。むしろ、構造があるからこそ、時間をかけて感情が動き、聴き手の中に何かが立ち上がってくる。

絵画でも同じことが起こり得る。
画面の構成や色彩、形態の関係は、作品を成立させるための形式であると同時に、見る人の感情や記憶を動かす条件にもなる。形式を理解することと、作品に心を動かされることは、必ずしも別の経験ではない。
音楽を聴くとき、私たちは必ずしも、その音が何を意味するのかを言葉に置き換える必要はない。音の響きや時間の流れそのものから、何かを感じ取ることができる。
絵画においても、イメージが必ずしも明確な意味に翻訳される必要はない。象徴を読み解くことによって理解が深まる場合もあれば、意味を確定できないまま、色や形の感覚が心に残り続ける場合もある。
重要なのは、イメージや形式が、言葉による説明に先立って、私たちの経験に働きかけることだ。

4. イメージは、思考を生み出す
こうした働きは、幻想絵画において、さらに明確になる。
ウィーン幻想派の画家たちや、H・R・ギーガー、マティ・クラーワインらの作品には、現実には存在しない生物や空間、身体と機械が結びついた姿、宗教的な図像を思わせる光景などが登場する。

そこには、すぐに意味を説明できないイメージがある。
奇妙な形態に不安を覚える。過剰な細部に引き込まれる。美しいと感じながら、どこか恐ろしさも感じる。宗教画のような荘厳さを覚えながら、何が描かれているのかはよくわからない。
そのとき、見る人は作品の意味を受け取るだけではない。イメージに触発され、自分の中で意味をつくり始める。
ヨーロッパの幻想絵画において興味深いのは、神話や宗教、身体、自然といった、文化的な意味を帯びたイメージが用いられながら、それらの関係がしばしば不安定になっていることだ。

見覚えのある図像が登場しても、それが従来の意味をそのまま伝えてくれるとは限らない。身体が機械と結びつき、宗教的な荘厳さが不気味さへと転じ、現実にはあり得ない空間が精密な描写によって強い実在感を持つ。
そこでは、既存の象徴体系がイメージを理解する手がかりになると同時に、その体系だけでは説明できないものが生まれている。
つまり、幻想絵画は、象徴を用いながら、象徴の意味を揺さぶることもできる。
ここで、イメージは単なる思考の結果ではなくなる。

イメージは、思考の結果であると同時に、思考を発生させる場所でもある。
この点から見ると、幻想絵画は、現実から逃避するための絵画とは限らない。むしろ、日常の認識では捉えにくい感情や欲望、恐怖、宗教的な感覚などを、目に見える形にする試みとして考えられる。
現実を正確に再現することだけが、現実を考える方法ではない。現実には存在しないイメージをつくることで、普段は意識していない現実の側面が、かえって浮かび上がることもある。
イメージは、何かを意味するために存在するだけではない。見る人の記憶や感情を呼び起こし、そこから新しい意味が生まれる余地をつくることもできる。 つまり、イメージは、思考の結果であると同時に、思考を発生させる場所でもあるといえるのだ。



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