前章では、鑑賞とは「認識・保留・評価」を行き来しながら作品と向き合う営みであることを述べた。
制作に携わるようになると、この「評価」は完成した作品に対して行われるだけではなく、制作の最中にも絶えず繰り返されていることに気づく。描くこととは、同時に見ることでもあり、制作とは鑑賞を内側から繰り返す経験なのである。
美術系の学校で描画や画面構成を学ぶ経験は、単に技術を身につけることではない。制作そのものの見方が少しずつ変わっていく経験でもある。
最初は「絵がうまくなりたい」と思って描き始める。しかし制作を重ねるうちに、関心は次第に「どうすればよい作品になるのか」へと移っていく。

不思議なことに、「よい」と評価される作品は、最初から順調に描けた作品とは限らない。むしろ、「何か違う」「まだ違う」と違和感を繰り返し、焦りながら画面と向き合い、気づけば時間を忘れて没入していた作品の方が、不思議な説得力を持つことが多かった。
そこでは、「よい」という判断は一度だけ訪れるものではない。
一本の線を引いて「いい」と思う。
少し離れて見ると「違う」と感じる。
色を置くと「ここは生きた」と思う。
画面全体を見ると、今度は別の部分が気になり始める。
制作とは、描き、見直し、評価し、また描くという循環を繰り返しながら、少しずつ全体の関係を整えていく営みなのである。

この感覚は、どこかカツカレーを食べる経験にも似ている。
まずルーだけを口に運び、「うまい」と思う。
次にご飯と合わせると、「このバランスがいい」と感じる。
今度はカツだけを食べ、「カツもうまい」と思う。
少しルーが絡むと、「やはり合う」と納得する。
さらに福神漬けを加え、ルーやご飯との配分を少しずつ変えながら味わっていく。

「おいしい」という経験も、一度だけ訪れるものではない。
素材のおいしさ、組み合わせのおいしさ、全体のおいしさへと、価値を感じる対象が少しずつ移り変わっていく。
制作も同じである。
一本の線にも「よい」があり、一つの形にも「よい」があり、画面全体にも「よい」がある。
価値は一つではなく、評価の対象を変えながら何度も立ち現れる。
しかし、その価値は画面の中だけでは終わらなかった。
後にアンゼルム・キーファーやもの派の作品に出会ったとき、私は別の種類の「よい」に出会うことになる。

そこでは画面の完成度よりも、藁や鉛や石といった物質そのものが強く存在を主張していた。
「これはいいのだろうか。」
最初はそう思った。
画面は壊れ、素材は剥がれ落ちそうで、制作で学んできた「よい画面」の基準とはまるで違って見えたからである。


しかし、その違和感は作品の欠点ではなかった。
むしろ、自分自身が「画面」という境界の中で絵を見る身体を身につけていたことに気づかされたのである。
振り返れば、美術史とは、このような境界の更新を繰り返してきた歴史でもあった。
描写と抽象。
絵画と彫刻。
作品と空間。
芸術と日常。
物質と意味。
制度と表現。
芸術は境界を壊すことを目的としてきたのではない。
境界を問い直し、新しい認知の領域を開いてきたのである。



そして興味深いことに、その営みもまた工芸化していく。
説得力ある描画は技術として磨かれ、画面構成は身体知として共有される。
やがて、境界を越えること自体も一つの方法となり、その方法さえ工芸化されていく。


現代の芸術は、単に境界を壊すだけでは成立しない。
境界そのものを編集し、新しい関係を組み立てることへと向かっている。
一本の線を引くことも、一つの色面を置くことも、展示空間を構成することも、異なる文化を重ね合わせることも、本質的にはよく似た営みである。
違和感を見つけ、関係を調整し、全体の説得力を探り続ける。
制作を通して学ぶのは、技術だけではない。
世界にある境界は固定されたものではなく、経験を重ねるたびに揺れ動き、編集され続けるものなのだということである。 芸術とは、その変化をもっとも敏感に感じ取り、新しい認知の可能性を探り続ける文化なのである。



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