作品を鑑賞するとは、「わからなさを保持すること」でもある。

「好きなものを見つけてください」という言葉は、一見するともっとも自由で開かれた鑑賞の態度のように思える。しかし現代アートの現場では、この言葉だけでは立ち止まってしまうことがある。自由であるはずの鑑賞が、「どこから見ればよいのか分からない」という戸惑いを生んでしまうからである。

問題なのは自由そのものではない。自由が自由として立ち上がるための足場が不足しているのである。
このことは、音楽の聴き方にもよく似ている。
たとえばジャズを初めて聴くとき、私たちは曲全体を一つの「雰囲気」として受け取ろうとする。しかし、ある段階から聴き方が変わる瞬間がある。ドラムのスネアの粒立ち、ベースの歩き方、ピアノのコード、サックスの息づかい。それぞれを一度ばらばらに聴こうとする段階である。

このとき起きているのは、音楽を理解することではなく、音を分解して認識することである。全体としての意味を急いでまとめず、それぞれの要素をそのまま受け止める。
しばらくそのように聴き続けていると、ある瞬間、それらの要素が突然ひとつの構造としてまとまり始める。スイングやグルーヴと呼ばれるものは、そのとき初めて身体の中に立ち上がってくる。
これは最初から存在していた意味を理解したというより、ばらばらだった認識が新しい構造として結び直された結果である。
一方、ヒップホップの多くは、最初から編集された全体として提示される音楽である。そこでは要素を分解して聴くこと以上に、「編集された全体がどのような構造を持っているのか」を受け取ることが重要になる。

現代アートの鑑賞にも、同じような構造がある。
第一段階は、「認識」である。
素材、形、色、スケール、配置、質感、空間との関係など、「何がそこにあるのか」を観察する段階である。この時点では、まだ意味を急いでまとめる必要はない。

第二段階は、「保留」である。
ここでは、「分かった」「分からない」、「好き」「嫌い」といった判断をいったん保留する。
保留とは判断を先延ばしにすることではない。
まだ結び付いていない認識を、そのまま保持しておくことである。
この状態があるからこそ、認識は後になって新しい形へと再編集される可能性を持ち続ける。

第三段階は、「評価」である。
ここで初めて、作品に対する価値判断や好き嫌いが立ち上がる。
しかし、その評価は最初の印象とは異なる。
認識し、保留した時間を経た評価には、自分自身の経験や思考が重なり、より厚みのあるものとなる。
もちろん、この三段階は一度だけ進むものではない。
鑑賞の中では何度も往復され、そのたびに作品の見え方は少しずつ変化していく。
この過程で起きているのが、ゲシュタルトの形成である。
つまり、ばらばらだった認識が新しい構造としてまとまり直し、「見えていなかったもの」が見え始める現象である。
だから「分からない」という状態は、失敗ではない。
むしろ、新しい認識が生まれる直前の、大切な時間なのである。

実は、このような「認知を育てるための型」は、美術教育の現場でも長く実践されてきた。
図画工作科の低学年には、「造形遊び」と呼ばれる学習がある。
これは単に自由に遊ぶ活動ではない。素材や場所、条件を教師があらかじめ整え、その中で子どもが自ら発見し、試し、認識を更新していけるよう設計された学習である。一見すると自由に見える活動も、最小限の構造によって支えられている。

鑑賞も同じである。
「好きなものを探してください」という言葉だけでは、足場が不足することがある。
そこで、
・まず素材や構造を見る。
・次に、それらの関係を観察する。
・さらに、自分の身体との関係を確かめる。
・最後に、まだ分からない部分も含めて整理してみる。
こうした視点は、作品を正しく理解するための手順ではない。
作品へ入っていくための入口である。
その入口があるからこそ、認識はゆっくりと育ち始める。
鑑賞者は、その過程で、
「これは見えた。」
「これは少し分かってきた。」
「これは今は分からない。」
「これは後から見えてくるかもしれない。」
という、自分自身の認識の状態を確かめることができる。

そして、その整理を経たあとで初めて評価が立ち上がる。
その評価は、単なる第一印象ではない。
見えたもの、見えなかったもの、保留したもの、そのすべてを含んだ経験として生まれてくる。
鑑賞とは、一度理解して終わる行為ではない。
認識し、
保留し、
評価する。
その循環を繰り返すたびに、作品は少しずつ違う姿を見せ始める。
作品が変わったのではない。
世界への触れ方が変わったのである。
鑑賞とは、作品の意味を確定することではない。 作品との出会いを通して、自分自身の世界への触れ方を少しずつ更新していく営みなのである。
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