絵画を保存する ─ 抽象表現主義という真空パック
美術史を学ぶと、多くの場合、抽象表現主義は近代絵画の頂点として語られる。
確かにその評価には十分な理由がある。ポロックやロスコ、ニューマン、デ・クーニングらは、画面や色彩、身体性、空間、支持体といった絵画そのものの問題を極限まで掘り下げ、近代絵画が到達し得た一つの臨界点を示した。

しかし、時間を置いて振り返ると、少し違った景色も見えてくる。
文化は本来、一つの純粋な領域として存在しているわけではない。
宗教、政治、経済、科学技術、生活、大衆文化、建築、文学、音楽──それらは互いに影響し合い、混ざり合いながら成熟していく。
本稿では、このような文化の姿を「カツカレーカルチャリズム」という視点から捉えている。文化とは、異なる価値が混ざり合い、新しい関係を生み出し続ける営みである。

ルネサンスやバロックもまた、そのような混成の中から生まれた。
教会、都市、王侯貴族、建築、哲学、科学、職人制度、市場──それらが何世代にもわたって重なり合い、芸術作品には時間そのものが厚みとして宿っていったのである。
しかし、戦後アメリカには、その熟成の時間がなかった。
ニューヨークは世界の美術の中心になろうとしていたが、ヨーロッパのように数百年かけて積み重ねられた文化の厚みを持っていたわけではない。
それでも、新しい時代の芸術は、人々が信頼できる普遍的な価値として成立しなければならなかった。
そこで生まれたのが、抽象表現主義という特異な空間だったのではないだろうか。

巨大な画面、身体性、崇高という理念、美術館、市場、批評、そしてグリーンバーグの理論。それらは互いに結び付き、長い歴史の中で自然に熟成してきた芸術の威厳を、短い時間の中で再構築しようとしたようにも見える。
本稿では、この状態をあえて「真空パック」と呼んでみたい。
真空パックとは、食材を変質させないために空気を抜き、価値を未来へ運ぶ保存技術である。
抽象表現主義もまた、宗教や物語、政治や娯楽、大衆文化といった多様な要素を一度括弧に入れ、「絵画とは何か」という問いだけを極限まで純化することで、芸術そのものの価値を保存しようとした運動だった、と考えることができる。
ここで重要なのは、「純化」は必ずしも排除だけを意味しないということである。

戦争によって価値観そのものが揺らいだ時代、人々はなお、人間の創造性や自由、芸術への信頼を失いたくなかった。
真空パックが守ろうとしたのは、絵画という形式だけではない。
人間にはなお創造する力があるという希望であり、芸術には時代や国家を超えて人を結び付ける力があるという信頼だった。
その意味で抽象表現主義は、近代が芸術へ託した希望を未来へ運ぶための保存装置でもあったのである。

しかし、その保存の方法は、西洋近代が長く育んできた思想とも深く結び付いていたように思われる。
西洋思想には、多様な現象の背後に一つの真理や本質を見いだそうとする傾向が繰り返し現れる。プラトンのイデア、キリスト教の唯一神、普遍的な理性への信頼、近代科学の法則、そしてモダニズムが追い求めた「芸術の本質」。
抽象表現主義もまた、その長い思想史の延長線上で、「絵画の本質」を問い続けた運動として理解することができるだろう。
だからこそ、それは美しかった。
しかし同時に、それは文化本来の姿から見れば、極めて特殊な状態でもあった。

文化とは本来、純粋なものではなく、混ざり合い、影響し合い、変化し続けるものだからである。
真空パックは必要だった。
だが、それは保存のための技術であって、文化そのものではない。
宇宙食が日常の料理ではないように、抽象表現主義もまた、極限状況の中で価値を未来へ運ぶために設計された特別な形だったのである。
そして、保存された価値は再び社会へ戻り、新しい文化と混ざり始める。
ポップアートは広告や漫画、テレビと結び付き、コンセプチュアル・アートは言語や制度へ向かい、ストリートアートは都市へ、さらに今日ではインターネットやAI、ゲーム文化とも結び付いている。

文化は再び「カツカレー」の状態へ戻っていく。
だから抽象表現主義は、美術史の終着点ではない。
文化が未来を信じるために、一度だけ価値を保存しようとした、美しくも特異な歴史的瞬間だったのである。



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