現代アートは、しばしば「概念の芸術」と呼ばれる。
しかし実際には、概念そのものが作品なのではない。
作品とは、ある思想や問題意識を、どのような形式として世界に現すかという試みである。

ミニマリズムは単純な形態を作る運動ではない。
それは「作品とは何か」「作者とは何か」という問いを、工業製品のような形態へと翻訳した結果である。

コンセプチュアル・アートもまた、文章を壁に貼ることが目的ではない。
「美術作品とは物なのか、それとも思考なのか」という問いを、作品という形式へ置き換えたのである。

つまり現代アートは、
思想からフォームへ。
この翻訳の過程そのものが作品なのである。
だから現代アートを理解するには、形式だけを見るのでは足りない。
その形式を必要とした問いや、その背後にある思想、批評、社会との関係まで含めて受け取る必要がある。

しかし、日本では少し異なる受容が起こってきたように思われる。
もちろん日本にも優れた思想家や批評家は数多く存在する。
ここで述べたいのは、日本に思想がないということではない。
文化全体として見るなら、新しい概念は「正しいか」を議論し続けるよりも、「どのように使えるか」という方向へ翻訳されやすい傾向があるということである。
自由は哲学よりも生活の自由として。
民主主義は理念よりも制度として。
宗教は教義よりも行事や作法として。

そして現代アートもまた、思想より形式として受け入れられる。
白い展示空間。
日用品の利用。
テキスト。
インスタレーション。
リサーチ。
これらは本来、思想を可視化するために選ばれた方法だった。
ところが思想そのものより形式が先に共有されると、それらは次第に「現代アートらしい文法」として独立していく。
問いは失われても、方法だけが残る。
その結果、新しい問いを生み出すより、新しい見せ方を更新する方向へ制作が向かう。
もちろん、このような形式の制度化は日本だけで起きた現象ではない。
現代アートが成熟した社会では、多かれ少なかれ共通して見られる現象でもある。
しかし日本では、それが文化全体の受容の傾向とも重なり、より形式として定着しやすかったように思われる。

この傾向を単純に「日本は現代アートを理解していない」と結論づけるのは早計だろう。
むしろ、日本文化そのものの特徴が現れていると考える方が自然である。
日本では古くから、外から入ってきた思想や文化は、そのまま維持されることは少なかった。
仏教はインドや中国の壮大な哲学体系としてだけではなく、寺院制度となり、年中行事となり、茶道や庭園、美意識へと姿を変えた。

儒教も政治制度や教育へ組み込まれた。
近代になると西洋思想も、理念そのものより制度や教育、産業、デザインへと翻訳されていく。
思想は保存されるより、生活へ加工される。
言い換えれば、日本では概念は形式になりやすいのである。

これは、前章で述べた「概念の工芸化」を、文化の側から支えている土壌とも考えられる。
同じ概念であっても、日本では生活や制度、制作方法として扱える状態へと加工されやすい。
そこには日本文化の優れた創造性がある。
しかし同時に限界も生まれる。
技法は継承できる。けれど、その技法を生んだ問いは継承しにくい。
すると制作は思想から離れ、形式だけが自己増殖していく。

なぜ日本では、このような受容が生まれたのだろうか。
その背景には、日本という土地が長い時間をかけて育んできた文化的条件があるように思われる。
日本列島は、地震、津波、台風、洪水、噴火など、人間には制御できない自然と共に暮らしてきた。

さらに歴史を見れば、元寇、キリスト教の伝来と禁教、明治維新、敗戦と占領など、社会の前提そのものが何度も更新される外的危機も経験している。

つまり日本では、「永遠に正しい思想」を守ることより、「新しい状況でも共同体を保ち、暮らしを立て直すこと」の方が、より切実な課題になりやすかった。
そのような環境では、
「世界とは何か」
という問いよりも、
「この世界の中でどう振る舞えばよいのか」
という問いが重くなる。

だから思想は、行動規範や作法、制度、形式へと翻訳される。
思想は、共同体を支える知恵として定着していくのである。
これは西洋思想の歩みとは対照的な面を持っている。
西洋では、一つの思想が新しい思想によって批判され、更新され続ける。
揺らぎそのものが知の原動力になる。
一方、日本では、新しい概念は共同体の中で扱える状態へと収束しやすい。
揺れを持続させるより、揺れを受け止める型を作る。
だから西洋では思想が歴史を動かし、日本では形式が歴史を支えてきた側面がある。

現代アートもまた、この文化の上で受容される。
だから日本では、概念が作品になる前に、作品が概念の型になる。
その結果として形式は豊かになる。
しかし、その形式を生み出した問いを忘れたとき、現代アートは単なるスタイルの反復へと変わってしまう。

だから日本に必要なのは、西洋の思想をそのまま輸入することでも、形式を否定することでもない。
形式の背後にある問いを、もう一度現在の社会の中で立ち上げることである。
概念を技法として終わらせるのではなく、技法を再び概念へ開いていくこと。
それは、日本文化を否定することではない。
むしろ、形式という日本文化の強みを、新しい認知を生み出す場へと開き直すことなのである。 そこではじめて、日本の現代アートは「形式の文化」を超え、日本文化の特質を生かした新しい批評性を獲得できるのではないだろうか。


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