シュルレアリスムの歴史を語るとき、しばしば引用される言葉がある。
「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶然の出会い」
19世紀の詩人ロートレアモンのこの一節を、アンドレ・ブルトンらはシュルレアリスムの核心として受け止めた。

本来結びつかないもの同士を接続すること。
そこから新しいイメージを生み出すこと。
それがシュルレアリスムの重要な方法だった。
この運動はやがてヨーロッパ全土へ広がり、多くの画家たちに影響を与える。キュビスムと同様、それは20世紀前半の芸術家にとって一種の共通言語となった。

日本にもその影響は及んだ。
しかし興味深いのは、日本ではシュルレアリスムが単なる前衛芸術としてだけでなく、より広い想像力の領域へ浸透していったことである。
その象徴的な例が、成田亨の怪獣・宇宙人デザインではないだろうか。
たとえばバルタン星人は、人間、蝉、鋏、宇宙人が混ざり合ったような存在である。

エレキングは、恐竜ともキリンとも機械ともつかない。それらは生物学的合理性によって設計されているのではない。異なる要素が直感的に接続され、新しい生命体として成立している。

その発想は、「ミシンと蝙蝠傘の偶然の出会い」と驚くほど近い。
さらに興味深いのが三面怪獣ダダである。
その名称はダダイズムを連想させ、白黒の縞模様はオプアートを思わせる。顔はアフリカやオセアニアの仮面を参照したプリミティヴィズム的造形とも言われている。もしそうだとすれば、ダダとは20世紀前衛美術の複数の要素が一体化した存在ということになる。

もちろん子どもたちはそんなことを知らずに見ていた。しかし重要なのはそこかもしれない。ヨーロッパでは難解な芸術運動として存在していたものが、日本では怪獣や宇宙人として翻訳され、大衆文化の中へ自然に溶け込んでいったのである。
しかし、日本におけるシュルレアリスム受容を考えるとき、もうひとつ重要な違いがある。
西洋のシュルレアリスムは、現実の内部に超現実を発見しようとした。
夢。
無意識。
欲望。
偶然。
ダリやマグリットの作品では、見慣れた現実のなかに亀裂が入り、その向こう側から異様なものが現れる。現実そのものが揺らぎ始めるのである。

一方、日本の幻想文化は少し違う。
そこでは超現実は現実の内部に隠れているというより、現実の隣に存在している。
山の奥。
森の中。
海の向こう。
トンネルの先。
そこには別の世界があり、人はそこへ迷い込み、また帰ってくる。

妖怪もまた同じである。
狐は人に化ける。
猫は妖怪になる。
傘は付喪神になる。
石や木にも気配が宿る。
そうした世界では、人間と非人間、生物と無生物、現実と幻想の境界はもともと曖昧である。

だから異質なもの同士の出会いは、秩序を破壊する事件というより、新しい存在が生まれる契機として受け止められる。
そして日本では、その異様な存在は必ずしも恐怖や不安へ向かわない。
むしろ親しみへ向かう。
怪獣は人気者になり、妖怪はキャラクターになり、異形の存在は友達になる。
この感覚は、後のアニメや映画にも受け継がれている。
トトロは巨大で正体不明の存在でありながら愛される。

カオナシは不気味でありながらどこか憎めない。

異質なものは排除されるのではなく、共存の対象となる。
考えてみれば、カツカレーも同じである。
本来別々だったものが一つの皿で出会い、意外な調和を生み出す。
シュルレアリスムが「異質なものの衝突」に驚いたとすれば、日本文化は「異質なものとの同居」を楽しんだ。
その意味で成田亨の怪獣たちは、日本におけるシュルレアリスム受容のもっとも大衆的で、もっとも成功した姿の一つだったのかもしれない。
解剖台の上で出会ったミシンと蝙蝠傘は、海を渡り、日本で怪獣になった。
そしてその怪獣たちは、いつしか子どもたちの友達になっていたのである。


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