日本絵画から藤田嗣治へ
西洋絵画において、動物は長らく低位のモチーフに位置づけられてきた。歴史画や宗教画といった「人間の物語」が頂点にあり、動物はその周縁、あるいは従属的な存在として扱われる。そこでは、何を描くかが価値の序列と直結している。

しかし、日本絵画においてこの前提は成立しない。
この差異は単なる様式の違いではなく、世界の捉え方そのものに由来している。西洋においては、「神は自らに似せて人間を創った」とされるように、神は人間的な姿や意志を持つ存在として想定される。そこでは世界は主体によって意味づけられ、人間はその中心に位置づく。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図において、人間の身体は宇宙の尺度として配置されている。

この構造のもとでは、人間は基準であり、動物はその外側に置かれる。ヒエラルキーは、存在のあり方そのものに組み込まれている。
一方、日本においては、こうした中心は必ずしも成立しない。神は特定の姿を持たず、山や木、あるいは空間そのものに宿るとされる。また仏教的な思考においては、存在は固定された主体ではなく、関係の中で生成されるものと捉えられる。そこでは世界は「誰かが見るもの」ではなく、「場として立ち現れるもの」である。
この違いは、絵画において決定的な差を生む。
たとえば、長谷川等伯の松林図屏風においては、明確な主体は存在せず、霧や余白が画面の大部分を占める。そこでは空気そのものが主題となっている。


このような構造のもとでは、人間と動物のあいだに絶対的な序列は生まれにくい。両者はともに、場の中に現れる存在の一形態にすぎない。
江戸時代の絵画を見渡すと、動物は決して周辺的な存在ではない。むしろそれらは、絵画の核心に位置している。たとえば、伊藤若冲の動植綵絵において、鳥や魚、昆虫たちは、単なる写生の対象を超え、画面全体を構成するリズムそのものとして現れる。

また、円山応挙においては、犬や猫といった身近な動物が、驚くほどの観察精度と存在感をもって描かれる。そこでは対象の「格」ではなく、描く行為そのもの、すなわち筆致や気配が価値の中心にある。


さらに重要なのは、この動物表現が単なる写実や装飾にとどまらず、逸脱や遊戯の場として展開している点である。
長沢芦雪の動物たちは、その典型である。虎や犬はしばしば誇張され、どこか不気味でありながら同時にユーモラスでもある。その形態は正確さから逸れながら、むしろ強い存在感を獲得する。そこでは写生の精度よりも、「どのように逸脱するか」が問われている。


一方、歌川国芳において、動物はさらに別の方向へと展開する。とりわけ猫は、擬人化され、戯画化され、ときに人間社会そのものを反転させる装置として機能する。
例として、其まま地口 猫飼好五十三疋のような作品では、猫が言葉遊びや見立ての中に組み込まれ、意味とイメージのずれそのものが楽しみの中心となる。

ここにおいて動物は、もはや自然の再現ではない。
それは、意味をずらし、構造を撹乱するための媒体である。
このように見ていくと、日本絵画における動物は、
- 若冲においては「秩序と装飾」
- 応挙においては「観察と存在」
- 芦雪においては「逸脱と歪み」
- 国芳においては「遊戯と転倒」
という複数の位相を横断していることがわかる。
そしてこの多層性こそが、近代において特異な形で再接続される。
このように、動物が単なるモチーフを超えて絵画の核心に位置づく構造は、近代以降の日本画にも引き継がれている。たとえば、竹内栖鳳の班猫に見られる柔らかな触覚性や、横山大観の木兎における気配としての存在感は、動物を通して「身体」と「場」を同時に立ち上げる試みとして読むことができる。


藤田嗣治の猫は、江戸絵画のこうした自由さを引き継ぎながら、同時に西洋的な身体表現と深く結びついている。たとえば猫のいる自画像に見られる猫は、単なる愛玩動物として添えられているのではない。画面の中で静かに佇みながら、人物と同じ次元に引き上げられ、ひとつの“存在の単位”として配置されている。その毛並みは、彼の女性像に見られる乳白色の肌の表現と呼応し、柔らかさと人工性のあいだを漂う独特の質感を帯びる。また輪郭は鋭い線によって明確に規定され、触覚的でありながら同時に平面的な存在として画面に現れる。


ここで起きているのは、静かな転倒である。
本来、西洋において高位に属するのは理想化された人体であり、動物はその下位に置かれる。しかし藤田は、その「高位」の技法――肌の描写、触覚的な質感、身体としての存在感――を、そのまま猫へと適用する。結果として、猫は単なるモチーフではなく、「身体そのもの」として画面に現れる。

それは、人間/動物という区分だけでなく、ジャンルのヒエラルキーそのものを曖昧にする操作である。
このとき猫は、きわめて特異な存在として立ち上がる。人間と生活空間を共有しながら、完全には従属しない。触れられそうでありながら、決定的な距離を保つ。その曖昧な位置は、絵画において「表面」と「身体」を接続する媒介となる。

この構造は、現代の視覚文化へと滑らかに接続する。
スクロールされ、消費される無数のイメージの中で、猫は依然として強い存在感を持ち続けている。そこでは、
- 芦雪的な歪み(違和感)
- 国芳的な見立て(意味のずれ)
- 若冲的な装飾(過剰)
- 応挙的なリアリティ(触覚性)
が同時に存在している。
さらに言えば、現代の画像環境において流通する猫のイメージ――SNS上の写真やキャラクターとしての猫――は、触覚的でありながら平面的で、個体でありながら記号でもあるという二重性を持つ。それはまさに、藤田の猫に見られる「表面としての身体」の延長線上に位置している。



猫は、これらを矛盾のまま抱え込む。
高尚/低俗、芸術/大衆、人間/動物といった区分は、猫というモチーフのもとで滑り、混ざり合う。それは単なる混合ではない。異なる要素が解消されることなく併存し、そのまま強度を持つ状態である。
猫は、その状態を最も端的に体現する存在である。 そしてそれは、混成を肯定し、余剰を抱えたまま成立する美のかたち――すなわち、カツカレーカルチャリズムの具体例として位置づけることができる。


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