近代日本は、西洋の制度や思想を急速に導入しながら、「強い国家」へ向かって進んでいった。
美術においてもまた、西洋近代の影響のもとで、新しい表現や前衛的理念が次々と流入していく。
しかし、その過程で日本のモダニズムは、必ずしも「強さ」や「速度」の方向だけに進んだわけではなかった。
前章で見たように、フォーヴィスムという西洋前衛は、日本において、
- 制度化され、
- 爆発し、
- あるいは小宇宙化しながら、
独自の変質を遂げていった。
そしてその後、日本近代美術の内部では、さらに別の変化が起き始める。
それは、近代的な抽象化や単純化が、「世界を支配するための技術」ではなく、「世界との距離を縮めるための技術」へ変わっていくことである。

この変化を象徴するのが、岡鹿之助、奥村土牛、そして熊谷守一である。
彼らに共通しているのは、モダニズムの緊張や速度をいったん弱め、世界を“親密な距離”へ引き寄せている点にある。
岡鹿之助の風景には、異国の静けさがある。
フランスの港や建物を描きながら、そこにはパリ的な喧騒や前衛の速度感がほとんど存在しない。

空間は静止し、時間だけが少し遅く流れている。
そこでは異国は、征服される対象としてではなく、自分自身がゆっくり溶け込んでいく空気として描かれている。
奥村土牛は、牛や兎、花や山といった具体物を、やわらかな記号のように整理していく。
しかしそれは冷たい抽象ではない。

むしろ対象は単純化されることで、触れられそうな親しみを獲得していく。
そこには分析や構造化よりも、「静かに共にいる」という感覚が強く残されている。
そして熊谷守一に至ると、その親密化はさらに徹底される。
猫、蟻、草花――彼の絵画では、世界はほとんど子どもの視線のような単純さへ還元されていく。

輪郭は太く、遠近法は弱まり、形は平坦になっていく。
しかしその単純さは、未熟なのではない。むしろそこでは、複雑化し続ける近代世界を、もう一度「身体で触れられる大きさ」へ戻そうとする感覚が働いている。
ここで重要なのは、彼らが対象を完全に「分析」していないことである。
西洋近代美術では、多くの場合、「見る主体」と「見られる対象」とが分離されていた。
対象は観察され、構造化され、把握される。遠近法もまた、その距離を整理する装置だった。
しかし岡、奥村、熊谷たちの絵画では、その分離がどこか曖昧である。
熊谷守一の猫や蟻は、観察対象というより、「同じ地面の上で一緒に生きている存在」として描かれている。

奥村土牛の牛もまた、構造として分析されるのではなく、静かな時間ごと受け止められている。

岡鹿之助の風景も、異国を説明するのではなく、空気そのものへ自分自身が浸透していくような感覚を持っている。

つまり彼らの絵画には、「人間が世界を支配する」という感覚があまり強くない。そこにはむしろ、人間も自然も動物も物も、同じ場の内部に共存しているという感覚が流れている。
これは、日本文化の深い部分にある世界観とも繋がっている。
日本では古くから、山や川、草木、道具に至るまで、あらゆるものに気配や存在感を感じ取る感覚が育まれてきた。
いわゆる八百万的な感覚である。

そこでは世界は、人間が外側から分析する対象ではない。
むしろ人間自身もまた、その世界の内部に含まれている。
この感覚は、日本庭園や俳句、水墨画にも通じている。
すべてを説明し切らず、対象を完全に固定せず、余白や気配として共存する。

奥村土牛、岡鹿之助、熊谷守一の絵画には、そうした感覚が、近代の内部で静かに持続している。
彼らは近代化を拒絶したわけではない。
むしろ西洋近代の整理された構図や単純化、デザイン感覚を受け入れながら、それを「強さ」ではなく、「親密さ」の方向へ変換していったのである。
そのため彼らの絵画では、抽象化しても冷たくならない。
単純化されても、世界との距離が切断されない。

これは後の日本文化にも深く繋がっていく。
マンガ、キャラクター文化、カワイイ、ミニチュア感覚――日本文化には、巨大な理念や崇高さを、そのままではなく、少し小さく、柔らかく、感情移入可能なものへ変換していく傾向がある。

つまり日本では、近代の抽象化や単純化が、冷たい幾何学化ではなく、「やさしく世界へ近づくための技術」として発展した側面があるのである。

これはカツカレーカルチャリズム的に言えば、刺激の強い異国料理をそのまま並べるのではなく、角を丸め、温度を落ち着かせ、毎日の身体へ馴染む味へ調整していく感覚に近い。
彼らは近代美術を、強烈な異物として提示したのではない。 世界と共にいるための静かな料理として煮込み直し、新しいカツカレーとして食卓へ差し出したのである。


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