アルケミストとオーノーによる『ガター・ウォーター(Gutter Water)』を初めて聴いたとき、私は少し戸惑った。
決して整理された音楽ではない。むしろ、ごちゃごちゃしている。
あのビート、このサンプル、この空気。
次々と異なる表情が現れ、一つの様式へきれいに収まろうとはしない。
しかし何度も聴いているうちに、その雑然とした印象が少しずつ変わっていく。
これは未完成なのではない。文化そのものが、まだ鍋の中で煮込まれている音なのだ。

『Gutter Water』というタイトルは、「どぶの水」とも訳せる。
一見すると挑発的で、汚れたイメージばかりが先に立つ。
しかし、どぶとは様々なものが流れ込み、混ざり合う場所でもある。
異なる水が出会い、濁り、沈殿し、新しい流れをつくる。
このアルバムもまた、そのような場所だった。
耳を澄ませると、その鍋には実に多くの具材が放り込まれていることに気づく。

DJプレミアが築いた硬質なサンプリング。
ウータン・クランが生み出した湿った空気と映画的な闇。
モブ・ディープの張りつめた緊張感。
ピート・ロックの滑らかなソウルネス。
ファンクの粘り。
ジャズの濁った和音。
古いソウル。
ライブラリー・ミュージック。
B級映画のサウンドトラック。
イタリア映画や犯罪映画が持つ乾いた空気。
さらに、西海岸の自由な感覚や、膨大なレコード・カルチャーへの偏愛までもが、一つの鍋の中でぐつぐつと煮込まれている。

そして、その鍋を囲んでいるもう一人がオーノーである。
オーノーはマッドリブの実弟として知られるが、その存在は単なる「マッドリブの弟」では語れない。
兄と同じように、膨大なレコードを掘り続け、ジャンルを横断し、音楽そのものを素材として身体の中へ蓄積してきた。
だから『Gutter Water』には、二人の音楽マニアが長年集め続けたレコード棚そのものが詰め込まれているように感じられる。
それは影響関係というより、一瞬ずつ文化が作品へ乗り移ってくる感覚である。
ある曲ではプレミアが顔を出し、次の曲ではウータン・クランの気配が漂う。
さらに別の曲では、西海岸のレイドバックした空気がふっと現れる。
しかし、それらは模倣ではない。
身体の中で十分に発酵した文化が、その瞬間ごとに異なる表情として現れているのである。
まるで、マニアックな音楽文化が、どぶの中で核融合を起こしているようだ。

私は、このアルバムを聴きながらカツカレーカルチャリズムという考え方を思い出した。
カツカレーのおいしさは、一つの食材から生まれるものではない。
カレーには数十種類ものスパイスがあり、玉ねぎや肉、野菜を時間をかけて炒め、煮込み、それぞれの旨味を重ねていく。
さらに、その上にカツが乗り、ご飯と出会い、一皿の料理として完成する。
一つひとつの素材は、それぞれ独立した文化である。
しかし、それらは互いを消し合うことなく、新しいコクを生み出していく。
『Gutter Water』もまた、そんな音楽だった。
このアルバムは、完成された様式ではない。
むしろ様々な文化が衝突し、混ざり、発酵し続けている現場そのものである。
だから音楽は濁っている。
しかし、その濁りは未熟さではない。
新しい表現が生まれる直前の豊かさなのである。

『Gutter Water』というタイトルを見たときは、「どぶの水」とは何だろうと思った。
しかし聴き終えたとき、その意味が少し分かった気がした。
あれは汚れた水ではない。
あらゆる文化が流れ込み、混ざり、発酵する場所なのだ。
だから、その先に生まれるのが『Alfredo』というパスタであり、『Alfredo 2』というラーメンだったのである。
澄んだソースも、澄んだ出汁も、最初から澄んでいたわけではない。
どぶのような混沌の中で文化は煮込まれ、時間をかけて一つの味へと成熟していく。
文化は、澄んだ場所から生まれるのではない。様々なものが流れ込み、混ざり合う場所から、新しい味は生まれるのである。
ジャン・デュビュッフェ──混沌は構築できる
オーノーとアルケミストによる『Gutter Water』を初めて聴いたとき、その音はどぶ水のように感じられた。
ソウルがある。ジャズがある。映画音楽がある。古いヒップホップがある。
街のざらつきも、ノイズもある。
様々な文化が濁り合い、一つの大きな流れになっている。

しかし何度も聴いていると、その印象は少しずつ変わってくる。
混ざっているのではない。混ぜているのである。
どの音を残し、どの音を削り、どこで濁らせ、どこで静けさをつくるのか。そのすべてが緻密に選び抜かれている。
一見すると混沌に見える世界は、実は強い意志によって構築されているのである。
その感覚を、美術の中で思い出させる画家がジャン・デュビュッフェである。


デュビュッフェは、美術館やアカデミーが評価する美しさだけを芸術とは考えなかった。
子どもの落書き。
街の壁の傷。
精神疾患をもつ人々の表現。
民衆の手仕事。
そうした、美術の外側にある表現へ目を向け、それらを「アール・ブリュット(生の芸術)」として紹介したことで知られている。

彼の絵は、一見すると粗雑で無秩序に見える。
線は揺れ、形は歪み、画面は泥のような質感に覆われる。
しかし、その画面は決して偶然ではない。
色も、形も、余白も、画面全体のリズムも、驚くほど慎重に構成されている。
彼が描こうとしたのは、「下手な絵」ではない。
美術が見落としてきた価値を、新しい秩序として組み立て直すことだったのである。


その姿勢は、『Gutter Water』にもよく似ている。
オーノーとアルケミストは、様々な文化をただ引用しているのではない。
ストリートの記憶、映画、ソウル、ジャズ、古いサンプリング文化──そうした異なる時間や場所を行き来しながら、それらを一つの空気として丁寧に編集している。
だから、このアルバムは「雑多な音楽」ではない。
混沌を設計した音楽なのである。

文化とは、純粋なものを守ることではない。
異なるものが出会い、ときに濁り、ときに衝突しながら、新しい秩序を生み出していく営みである。
ジャン・デュビュッフェは、そのことを絵画によって示した。
オーノーとアルケミストは、それをヒップホップによって示した。
混沌とは、秩序が失われた状態ではない。
新しい文化が生まれようとしている、その最も豊かな瞬間なのである。


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